六年生の冒険の終わりを告げるもの

忍ミュ第8弾が発表されましたね。
それどころかもう第二次プレオーダー受付の真っ最中ですね。忍ミュ8はもう始動している……!



「六年生の六人組が、目の前に立ち塞がる試練を乗り越えていく物語を描くミュージカル」
それが忍ミュだと思っていました。でも、どうやらそうとも限らなかったようです。
忍ミュ第8弾公演決定のお知らせと共に、突然やってきた六年生の六人組との別れ……やはり最初はショックでした。
五年生たちの先輩役として文次郎と仙蔵が登場するといっても、二人のポジションは明らかに今までの忍ミュとは違うし、何より喜びも苦しみも共にした四人の仲間たちはもういない。



第7弾が終わりを迎えた時、六年生たちは 私が手をいくらのばしてももう届かない程に遠くへ旅立っていったのではないか......と、感じている。
忍ミュ第7弾のラストで「光に向かって」を歌う六年生たちと、忍ミュ第7弾までの道のりをを走りきってどこかへ行ってしまった六年生たちが自然と重なったのです。

六年生たちが自ら成長を望んで遙かかなたへと旅立っていこうとするのなら、それを引き留めることが私にできようか!
喜んで六人の門出を祝福しようではないか。


「忍ミュの六年生の物語は終焉を迎えた」と感じた理由をここで述べます。







第1弾はチームワークがバラバラの六年生が忍術学園卒業をかけたミッションを言い渡される物語。六年生たちは心をひとつにして、六人でミッションを成し遂げる。最後は「六年生のままでいい!」となるオチで終わり。
忍術学園 入学の願書 受付中!と歌って踊ってPRする六年生たちはまさに"忍術学園の顔"、つまり六年生は忍術学園に居続ける。

第1弾が終わった後も、六年生はいつものように これからも忍術学園で修業して己を磨き、ケンカして、仲間たちと絆を深めていく。


第1弾「がんばれ六年生!」って、ウ~~ン 六年生、応援されちゃってるよ!青いッ青いよ 六年生の青さが滲み出てるよ!
おしりにたまごのカラひっつけたピヨピヨひよこちゃんそのものだよ、このときの六年生は!



第1弾で描かれていたことを一言で表すと「忍者とは」
戦えば、どちらか片方は必ず倒れる。
忍者とは、戦わずに済む世界をつくりあげる、つまり 戦いのない世界を実現させるための存在なのだ。
留三郎は物語のラストで、闘いたくても闘えなかった赤壁と再び勝負をする機会に恵まれる。しかし、その時 留三郎は……闘いはしなくて良いのだ、と赤壁との勝負を辞退した。
おそらく、留三郎は第1弾の物語を経て 忍者は闘う者ではなく、闘わずして済む道を導きだす者なのだと悟ったのだと思う。






第2弾も最後は「いつもの忍術学園に戻った!」と、忍術学園の日常に戻ってゆく。忍術学園で何かが始まり、何かが起こる。
そしてまたいつもの忍術学園に戻る。
忍術学園で過ごすこの時を、泣いて笑って生きようではないか という歌詞で物語は終わる。





第2弾で描かれていたのは「忍者にとって一番大切な心:正心」

賊と忍者の違いは術を私利私欲のために使うか、世のため人のために使うか。私利私欲のために術を使えば盗賊に成り下がる。
己が忍者で居続けるためには、常に世のため 人のためと思う心を忘れてはならない。


自分の要望を何とかして通そうとしてモメていた六年生と五年生たち。
六年間忍術を学んだ六年生たちは正心 の意味を知識としては知っていたけれど、己がままに行動していた。

しかし 学園長が暗殺されそうになり学園長が恐れを抱いていると知り、大恩ある学園長を守りたい!!と心から望んだそのとき……!
六年生たちは、自らの内にわき上がる「学園長のために=ひとのために」動きたい と望む正心のこころを真に知ったのであった。
六年生たちが「人のために」動き出した第一歩、それは まずは身近な存在の学園長のために忍術を使い闘った ということだった。


そして、第2弾では 素敵な先輩後輩、先生に囲まれて毎日を過ごす忍術学園はなんて素敵な場所なんだ、大好きだ!!と歌う。
これは自分が今いる忍術学園という自分たちのウチの世界を認識し、「私たち」というウチの意識の芽生えを意味していると思います。この話、あとで使います。
(第2弾は初演をDVDで見たのみです)






第3弾は六年生と一年生、六年生と五年生の心の距離が近くなる過程を描いた。
物語の最後に六年生たちが「お前たち五年生も、いずれ戦う時が必ず来る」と五年生の二人を励ます。
そしてその「戦う時」が第8弾にやってくる。五年生が戦う時は、本当にやって来た。


第3弾のテーマは……そうだな……「許す・許容する」「憎しみを振り切る」かな……言い切れなくてすみません。
自分を爆発黒コゲ不幸にする存在に対して抱く憎しみはいつか晴れる日がくるのだろうか……。
互いに成長すれば、たぶん和解できる日がくるはず。たぶん。その時には、しんベエも喜三太も仙蔵に自分たちは許されていたのだと気付くかもしれないね。

そして 故郷の村を消されて世を憎んでいた山賊一号さんも、物語の最後にはふっきれることができました。憎しみから吹っ切れることは、当人にとって救いになるのですね。
でも「救われるから憎しみから吹っ切れようね」という話ではなく、憎しみが消え救われる時がその人のもとに訪れるかどうか……という事だと思うのです。




忍ミュ第1弾から第3弾までは、六年生たちは物語が始まると冒険に出かけ、そしてまた忍術学園の日常に戻ってきた。
忍ミュの六年生は冒険が終わるとまた忍術学園に戻り、忍術学園六年生として学園で日常を過ごすことが永遠に約束されていたかのように思われた。









しかし、忍ミュ第4弾のオープニングソング「始まりの時」で

いつか別れの時がきて 一人ぼっちになっても 忘れはしないよ いつまでも
それまでは 一緒に頑張っていこう

と、忍術学園で過ごす日常にも終わりが存在することをここで仄めかす。忍ミュの世界にも永遠は存在しなかった。
しかもOPの「始まりの時」に。なぜ今から物語が始まろうとする時に、終わりを予感させるのか。(理由は分からないからこれはただのメモ)

そして物語も、小平太・仙蔵・文次郎が忍術学園の仲間たちの元から消えてしまいそうな危機に陥るというものだった。
もちろんその後、三人は忍術学園の皆のもとへと戻ってきた。

だが、「忍術学園から外に出ていったきり、もう帰ってこないかもしれない」という恐怖に本格的に襲われたのはこの時だったように思う。
六年生たちは、自分たちと忍術学園を取り囲む「ウチ」の世界とは別に「ソト」の世界が存在するとこの時に認識したのではないだろうか。
今の忍タマたちにとっては忍術学園のウチの世界の社会が全てだけど、忍術学園の門から出るとソトの世界が広がっている。

(2017.5.24加筆分)
ミュ4のラストソング「苦労は報われる」で六年生・四年生たちは
「解らなかった 何をすればいいか~だけど僕たちにはまだ 時間があるはずさ……♪」と歌っている。
「まだ時間があるはずさ」はまだ忍タマでいられる時間がたくさんあるという考えなのか、それとも「そろそろ忍タマ時代が終焉を迎える予感がするけれど、そこに至るまでの限られた時間を有効に使う術があるはず」と歌っているのか。




そして第5弾、六年生たちの物語は急激に動き出す。

第5弾で六年生は、四年生の滝夜叉丸と三木ヱ門が自分たちよりも先に、忍タマ少年として生きている忍術学園の世界を出ていってしまいそうになるという事件に直面した。


第5弾初演、ヤケっぱち気味に黄昏甚兵衛について行ってしまった滝夜叉丸と三木ヱ門は黄昏甚兵衛に

こぼれた水は 戻らない
私と共に「行くしかないのだ さあ」
行くのだ

と責められる。
一時の気の迷いであったとしても、自分はわからないままについて行ってしまったのだとしても、過ちとされてしまう。
大人の世界はなんて厳しいのだろう。大人の世界では、やってしまった事の結果を責められてしまうのだ。



しかし忍術学園の皆が

たとえこぼれた 雫であっても
水に変わりはないはずさ
それも正しい 生き方さ


己を磨き 人の為になる
一緒に目指そう 仲間だから
一緒に目指そう 仲間なのだから

と呼びかける。
「たとえこぼれた雫であっても 水に変わりはないはずさ」......雫はこぼれてしまった、それは事実なのか!!
こぼれた水は元に戻ることはなく、海を目指して進んでいく。その流れに逆らう事はできないし、止める事もできない。


学園長の力強い「いずれは海に出る 名もなき川でいい」というひとことが、六年生たちの物語は海を目指して一直線に向かっていくスイッチになったのだと今になって思う。



しかし、ここで気になることがひとつ。ラストの「思いはひとつ」のこの部分

大人になって 行くためには
何度でも やり直せばいい
「無限の時間 大切な日々」
いずれこの手に 希望をつかむ

「無限の時間」ですって!! いいじゃん!!
無限に時間があるのならいいじゃん!!
そんなはずはないような気がする よって、謎!(ただのメモ)


第5弾のタイトルは「新たなる敵!」 忍タマたちの新たなる敵は、どんなことも ざっとこんなもんよ!とこなす大人の中の大人、プロ忍者だった。
忍ミュの忍タマたちの敵はみんな大人だ。





その次の、第5弾再演。
文次郎・小平太・仙蔵の三人は、三木ヱ門・滝夜叉丸・喜八郎の武器を取り上げて厳しく鍛えようとする。
三人は「自分たちが忍術学園の六年生でいられる時間もあと少し、刻一刻と終わりの時が近づいてきている」のだと、おそらく気が付いた。

四年生が絡む話だから当然といえば当然なのだけど この三人は第4弾で、二度と忍術学園の六年生として戻ってこれなくなってしまいそうな目に遭っている。
と、なると限られた時間で自分はどうすれば良いのかと焦るのも当然である。

しかも第5弾再演の三木ヱ門は危うく......「自分のため」のままに動いて本当にソトの世界へ、そして破滅の道へ行ってしまうところだった。


忍ミュ第5弾再演の公演の幕が降りてから、「風よ吹くがいい」の余韻のままに
四年生たち......特に三木ヱ門と滝夜叉丸が、風に身を委ね互いにケタケタ笑い合いながら、遠く遠く青空の向こうへ行ってしまったかのように感じている。
事実、忍ミュの四年生は第5弾再演を最後に忍ミュの物語の世界からいなくなってしまった。(第6弾にゲストとして出てきてくれたけど)



風よ吹け 吹きすさべ
この身が折れ飛ぶほどに

風の中でしか 聞こえない声がある
風の中でしか 見えない明日がある
唄えない唄がある

「風よ吹け 吹きすさべ この身が折れ飛ぶほどに」
忍術学園の世界にいる忍タマたちが、吹きすさぶ風に身を任せ遠く遠くへ旅立つ恐怖に打ち勝った!と感じたこの曲この歌詞。
「風よ吹くがいい」という曲名もすごく、良い。風よ吹くがいい、たとえこの身が折れようとも受けてやろうではないか!という詩が続くようだ。






第5弾で描かれていたことは「"正心=ひとのため"と"自分のため"のバランス」


「自分のためではなく、世のため人のために動きなさい」と教えられている忍者のたまごの忍タマ少年たちは、アイデンティティを形成しはじめた思春期に
「人のために動けと言うのであれば……己という存在は不特定の人々の中に埋もれて、そのまますっかり搾取されてしまうのではないか!?」
「人のためと言うのであれば、自分がやりたい事は諦めなくてはならないのか!?」
という疑問や葛藤にぶつかるのではないかと思います。


自分とは何者であるか 自分自身と向き合うはずのティーン時代に、忍タマたちは「私利私欲で忍術を使ってはならない」という
少年たちにとっては呪いのようにも感じられるかもしれないその教えがあるために、自分が真に考えていることが主張できず 忍タマたちの心が閉じられていってしまう
そんな事だって、ありえるように思うのです。



でも、「自分のため」に本心のままに動いてしまったら、いずれ破滅してしまう。
第5弾再演の三木ヱ門は、ドクタケの最新式の石火矢に魅了されてしまいます。ドクタケに手を貸したら、その石火矢が撃てる。
石火矢に執着する三木ヱ門はとても危なかった。「私は石火矢が撃てれば何でもいいんだ!!」と思っているかのように私は感じた。

だから忍タマたちは、自分の本心・本音=「自分のため」に上手く折り合いをつけつつ、本心と「人のため」のバランスをとっていかなくてはなりません。





第5弾で導き出された答えは
「己を磨き」「人のためになる」
自分のために自分が真にやりたい事をやり己を磨き、手にしたテクニックや力を人のために役立てれば良いのだ、ということ!
第5弾のストーリーは「自分のため」「人のため」は両立できる、と忍タマ少年たちに伝えてあげる物語だったのです。


第5弾初演で歌われた「人のためになる」は、第2弾で六年生たちが気付いた「人のため」とは違います。
第4弾でソトの世界を認識した六年生に、学園長は「いずれはソトの世界にいる不特定多数の人々のために動きなさい」と教えるのです。
第2弾で六年生に芽生えた「学園長のために=ひとのために」という心は、いずれは「不特定多数の人のために」となってほしい。
第5弾初演のドクタケの作戦が、忍術学園のイメージダウンであったのはそういうことなのです。
忍術学園の近くの街に住まう人々に「忍術学園は我々の暮らしをおびやかす存在」と思われるのではなく、忍タマ達は街の人々のために動くようになりますように。





そして「人のために」動くためには
まずは自分の対面に「相手」がいることを知り、相手の考えを聞き 相手を理解しようとしなくては。

なので、第5弾で描かれたもうひとつのテーマは「コミュニケーション」
相手を理解するにも、自分の気持ちをわかってもらうにも、相互的に意思疏通をしなくちゃ。自分の本当の気持ちは伝えなくちゃ、相手には伝わらないままだよ。
第5弾の文次郎にとって、その相手は三木ヱ門と留三郎でした。まずは、忍術学園のウチの世界にいる仲間たちのことから理解していこう。


自分の本当の気持ちを外に出して伝えたら、今まで築き上げられていたものが壊れていってしまうかもしれない。
文次郎と留三郎は、自分の本心を表に出したら 今の忍術学園の中での二人の関係や自分と周りの関係が壊れてしまうのではないかと、互いに本当の自分の気持ちを外に出せないままでいました。
二人が考えている本当の気持ちは何も間違ってはいないのに。




第5弾再演の雑渡さんは、自分の怪我の手当てをしようとした伊作に「私よりも部下の怪我の手当てをしてやってくれ!!」と頼みました。
雑渡さんは、自分が心から思う 怪我を負った部下を気遣う気持ちと、上司として部下にやってやることが一致していた。
文次郎も小平太も仙蔵も留三郎も、いつかはそんな風に上司として部下に働きかけてあげることができるはず。第5弾再演の物語の出来事を経験したんだもの。











第6弾、六年生たちが「忍術学園の六年生」として存在し続けていられる 忍術学園という場所が失われそうになる危機が訪れる。
しかも伊作と留三郎が、忍術学園を!己の居場所を!すべて自らの手でぶっ壊してしまうところだった。六年生が六年生でいられる忍術学園という世界も、ある時突然消えて無くなってしまうかもしれない。永遠なんてものは、存在しないのだ。


まやかしの憎しみに苦しみ 悪夢に身を投げ入れてしまいそうになった伊作と留三郎を、六年生の四人が「おれたちが居るこの世界のこの場所に帰ってこい!」と呼びかける。
ここにきて、「おれたちが忍術学園の六年生として存在する、この世界に帰ってこい!」と呼び寄せるとは一体どういうことなのか。
第6弾の物語的には普通に受け入れていたけれど、「六年生たちが遙か遠くへ行ってしまう」過程として見ていくと、今の自分に留まろうとするのが不思議に思えてきた。


それにしても第6弾の、ラストの六年生の覚悟がすごい。

燃え尽きてもかまわない この身果てるまで
護るべきものはもう決めた 迷わず駆け抜けるだけ

忍ミュの六年生たちの長い長い道のりがいきなりクライマックスに入り、いきなり猛スピードで突き抜ける。そんなイメージが消えない。


第六弾がフィナーレを迎えたら六年生の物語は終わり、このまま忍ミュも終わってしまうかと思った。
でも六年生の物語も、忍ミュも続いた。






第6弾のテーマは「忍者の最終目的:平和な世の実現」
第1弾で描かれた「忍者とは、戦わずに済む世界をつくりあげる=戦いのない世界を実現させるための存在」ということが、ここでまた描かれた。
では、それを実現させるためにはどうすれば良いか?

「人のため」に、自分が傷つくこともいとわず 自分が失うことも恐れずに、行動を起こす。
「見捨てる事など出来ない人の不運 全部受け止めてあげる」なんと、伊作はこれが自然とできていたのです。すごい。




でも、自分が傷つくことも 何かを失うことも怖いはずなのに、それでも立ち向かっていけるのはなぜだろう?
傷付いても、壊れたとしても、何かを失ったとしても、また自己再生して立ち直れる力がひとにはあるからです。
伊作と留三郎が雪鬼の幻術にかかって 忍術学園を荒らしても、文次郎 仙蔵 小平太 長次の四人はまた学園の壊れた場所を修補ました。
物語の中で伊作と留三郎は3回も忍術学園の門を壊したけど、そのつど ちゃんとみんなで直して門は元通りになっています。


第5弾再演で文次郎と留三郎が、今までの忍術学園での関係が壊れてしまう事を怖れて 自分の本心を外に出せないでいたけれど
怖がらなくても大丈夫。だって、もし 自分が本心を伝えたとして今までと関係が変わってしまったとしても、きっと自分たちで元に戻すことができるから。

自分が立ち直るには、自分がした事 相手がした事を受け入れて許せなくちゃ先には進めない。
これも第3弾で仙蔵が学んだことです。








そして......第7弾。
第5弾初演で「いずれは海に出る」と学園長から教えられた六年生たちは、第7弾で本当に海に出た。
小さな水の一滴のあつまりが川の流れをつくり 海まで辿りついたということは、忍ミュではゴールインを意味していたんだ。
物語からも、挿入歌の歌詞からも、六年生たちの成長物語は終焉に向かっていることは読み取れたんだ。


海に出たどころか!オープニングのSTOMP THE WORLDの時点で
「俺達の手で さあ!漕ぎ出せ」と、そのまま航海に出ていってしまう!!


水軍の海賊さんたちは海に出るのがお仕事だから、「いってらっしゃ~い!」と見送った後にはまたいずれ陸に戻ってくるけれど、果てしない海へと漕ぎ出でようとする少年たちはもうきっと戻ってくることはない。
そもそも沖に出た水軍の船だって、必ず再び水軍砦のある海辺に戻ってこれるとは限らない。途中で命を落としてしまい、沖に出たまま二度と帰ってこないという事も大いにありえる。
それでも男たちは大海原へ船を漕ぎ出す。
少年が自らの決断で、自らの手で船を漕ぎだす時は、怖くても外の世界に出ていこうと覚悟を決めたその時だ。



忍ミュ第7弾が終わったあと、六年生は大海原を越え 光輝く世界に行ってしまった......ように私は感じている。
これまで数々の試練を乗り越え、たくさんの苦しみや憎しみ 悲しみを味わったのち、六年生の六人は光が差す世界を目指して進もうと決断してくれたことがこんなにも嬉しい。




第7弾、ついに六年生たちが自分たちで掴んだものは「平和な世を実現させるために、まず自分から歩み寄る」「相手のことを信じる」
六年生たちは、ついにソトの世界の初対面の人たちである水軍衆のことを
自分たちから 理解しようとし、ひとのため=水軍衆のために闘い、手を差し伸べることを達成したのです。

しかも、水軍砦のすぐ近くで爆発沙汰を起こした六年生は水軍衆に「攻撃を仕掛けてくる敵」と勘違いされてしまい、つまり第一印象は最悪。
そんな最悪な第一印象からスタートして、最後には六年生たちは水軍衆と心を通わせ絆を結ぶことができました。
これはすごい事だぞ。六年生はついに、こんなすごい事を成し遂げたんだ。








六年生六人のこれまでの冒険をはじまりから追いかけていったら、どんな物語が辿れるのだろうと思い、忍ミュ第1弾から第7弾までを見ていきました。
数々の闘いと試練に立ち向かっていった六年生たちは、初めて出会う人たちにも自分から歩み寄って仲間になろうという答えを最後に導き出してくれたことが、本当に嬉しい。





私は第5弾初演からリアルタイムで忍ミュを追いかけ始めた新参なので、忍ミュの六年生の物語はもう既に後半に入り「いずれは海に出る」予感が漂うところからしか時間を共有することができなかった。
忍ミュを第一弾から、またはそこまではいかなくても前半から追いかけている方が、純粋にとても羨ましい。
六年生の六人が共に走ってきた長い道を最初からずっと忍ミュのリアルタイムで駆けていった方々は、忍ミュの六年生たちの成長をリアルタイムで肌で、心で感じていったのだろう。


だから、第8弾では五年生たちが主役のストーリーが展開されると聞いたとき
「初めてイチから忍タマ少年たちの成長を見届けられる!」と嬉しくなり、胸の高ぶりを覚えたのです。
これから五年生が駆けていく姿を追いかけていけるんだ、こんなに楽しみな事は他にない!





でも六年生の卒業式をやりたいから、この場で卒業式っぽいことをします!



文次郎!
すべてのことに対して全力で喜び 怒り 哀しみ そして楽しむおまえは誰よりも、この世に生を受け 己が己であることに真っ直ぐ向き合おうとしていたこと、私にはわかる!
自分が自分として生きていく意味を一生懸命に でも明るい未来を信じて探ろうとしているおまえの姿はとても輝いていた!


仙蔵!
いつもスマートな立ち振舞いをしようと常に気を張って、そして八割がた見事に自分が意識した通りに動けていた、と第三者の目から見て思う!
常に背筋をしゃんとさせて指先までぴんと緊張の糸を張らせているおまえはとても頑張っている!
己が完璧でなかったことをどうか嘆かないでね。さらなる完璧な自分になれる可能性があるということなのだから………!


小平太!
誰もが自然と笑顔になれる元気を、惜し気もなくまわりに振り撒けるおまえは何て良いヤツなんだ!!しかもその笑顔と元気が尽きることがない。
時に皆がビックリするくらい真面目な顔をして真剣になれるし、どこまでも皆にポジティブなパワーを分け与えることができるおまえが居て本当に良かった。


長次!
おまえは自分のためだけでなく、自分以外のひとやもののために本気で怒って本気でエネルギーをぶつけることができる!
そしておまえは か弱きもの、力を持たないもの、そして美しいものは何かを感じ取って慈しむことをいつもしていたね。その感受性は一生の財産になるはずだよ。



留三郎!
おまえは立ち憚る壁に己の身体で立ち向かい闘う勇気と、助けを求める者を見放さない優しさの両方を持っている!
ひとを見放さずにどうにかして助けてやろうとすることは、ひとと関与したことで己の身に降りかかるリスクとも立ち向かおうとする勇気があるとも言える。おまえの勇気に力を貰ったよ。



伊作!
おまえは良くも悪くも怖れを知らない。怖れる前に、まず飛び出していくからだ。怖れる前に一歩を踏み出せるその足で、おまえはどこまでも駆けて行って、たくさんの人と繋がれる。
着ているものや居る場所でひとを判断するのではなく、人間ひとりとして一人一人と向き合うボーダーレスな感覚は、きっとたくさんの誰かを幸せに導ける。





......なんだこれ!!なんだこのノリ!!
でも、また六年生の六人が忍ミュに戻ってきてくれたら、それはそれですごく嬉しい。





2016.11.13 加筆しました。