忍ミュ第10弾 感想ツイートログ

取り急ぎ、忍ミュ第10弾に関するツイートをまとめました。

第10弾 初演

・忍ミュ10を見たら「忍タマのみんなから生きる気力をたくさん与えてもらったから、忍タマのみんなが与えてくれた分を私もこの世界の不特定の誰かに還元したい」と思えたから、人の道に導いてくれる忍タマのみんなは偉大。

このツイートを読んでくださるあなたの推しさんが今日も私を生かしてくれました。あなたの推しさんは本当に偉大。今日もあなたの推しさんはこの世界の誰かの命を救っているのです。大袈裟なようで大袈裟じゃない、本当のことです。

燃えている火を近付けると近づけたものにも炎が灯るように、忍タマみんなが生きている命の灯火を、これまで私は何度も何度も分け与えてもらいました。私の灯火が消えてしまいそうな時が何度もあったけど、そんな時にみんなが新しい火を灯してくれたおかげで私の灯火は今日も燃えています。


・笑うことで体内のガン細胞をやっつける細胞が活性化されてガンに効くらしいから、忍タマのみんなが今日も誰かの命を救っているというのは割とガチかもしれない。



百錬の最初の「恐れなき者の前に道は開ける」の時、文次郎がフォーメーションの頂点に君臨しているのがむちゃくちゃカッコいいんだよな~~~!!!
頂点で長物を振るうのがもうしびれるくらいにカッコいい。


・五年生の五つ星の歌、将来 五年生の五人がプロ忍者になって一人きりで忍び込んで潜伏している時に、同じ空の下で生きている他の五年生の四人のことを思い出しながらこの歌を思い出してくれるといいな……。
雷蔵と三郎もこの歌を知っていて、三人が歌っているときに二人で歌っていたんだろうな……と思ってやまないのです。

「五年生のみんながプロ忍になって、真夜中に一人きりで潜伏して心細くなったときに思い出してほしい 仲間と共に過ごしたあたたかい夜の記憶」をテーマにユメショを書いたことがあるのだけど、もう完全な解答ですよ。わたし書かなくて済んだよ。


・みゅ10ね、ひとつすごく嬉しかったシーンがあってね、ストラックアウト(球投げ?的当て?競技名忘れた)の時に刀印を結んで九字切りをするのがね……!!

これ『きょうふのきもだめし』(絵本)に書いてあったことだ!! 絵本ネタにまで手を出してくれている!!と初見時にテンションが上がったのだけど、帰宅して絵本を参照してみたらそんなことは書いてなかったので、出典をご存じの方がいらっしゃったら私に教えてください。
絵本には「手裏剣は仏具とルーツが同じだから忍者は一回一回気持ちを込めて"打つ"」とは書いてあった。



・「苦が無くあの世へ逝ける」と暗殺する時に苦無使うんだな……小平太も使う苦無で暗殺を……。マスカラスは暗殺に使う苦無を忍タマたちは守るべき者たちを守るために使うんだ……。



・ドクタケが「一日一回悪いこと」ハッ! と歌う前の「悪は世の為 人の為」で「ドクタケって己が為でなくて世のため人のためという意識で悪事をしていたの……!?!?」とものすごく驚いたのだけど、ドクタケさん達にも家族がいて愛しき人、守るべきものがあるのだろうな……と考えてからは、ドクタケは絶対悪ではなくあくまで忍術学園と対比した時の相対悪であって、真の悪は誰にどう決められようかと思うようになった。

でもドクタケさん方、悪事をしている自覚はあるんだよな。




・こんなに「みんなで一緒にゴール」で感動する運動会って他にないだろ……。最初にゴールしたどんぐりさんチームがタスキを振って続々と到着するみんなを呼ぶのが大好き。


・クライマックスの盛り上がりの「愛しき者よ」の歌詞、五年生パートは「天に掲げた 夢掴もう 二つの足で大地蹴りつけ 天を翔けろ」だし、滝夜叉丸は「我が道に咲くこの花を 踏みにじる者 闇に散れ」だし三木ヱ門は「私を照らすこの光 さえぎる者は許さない」だし、喜八郎は「愛しき者を守るため 恐れを捨てて 掘り進め」とそれぞれのキャラクターに対応しているから、となるとやっぱり守一郎は「今日という日が辛くても 最後に笑えればそれでいい」がふさわしいとして選ばれた歌詞なんだよな……はあ……守一郎がそう言うんだよ……。


・ミュ10の仙蔵、お顔つきは濃いめで目がぱっちりしていてかわいい寄りなんだけど、情熱を感じる話し方が何よりいいよな……仙蔵の内にある情熱が表現されていてぴったり。


・アニメの伊作はいつも 不運だ~!!きっとぼくが外に出たら嵐が来るんだ~!!って言っているけど、ミュ10の伊作は「足の骨が折れたかもしれませんよ!」と言われたら「きっとヒビが入っている程度だよ」と返すんだよ……。


・今日初めて気付いたけど、みゅ10、劇中で二回 雨が降って雷が鳴る描写があるんだね。一回目はらんきりしんのたけのこ堀りの時、二回目はキノコ山競争の時。山の天気は変わりやすいという意味の描写なのか、それとも何か別の意味があるのか。


・わたし第6弾が大好きなのだけど、第6弾も伊作座長の伊作メインの話だと思わせておいて、第6弾は伊作が幻術にかかって仲間たちに救われる話だった。第10弾は伊作の優しさと強さ、胸が熱くなるところを正面から描いている話。
「傷付いた者を癒す」という描写でドラマを描くのは、何だかひとヒネりあるような気がする。伊作は傷付いた者の命を守るため、真っ先にかけつける。



・ミュ10って新しいことが描かれているかといえばそうではなく、第1弾から第9弾までで描かれていたことのおさらいであって第10弾は今までの集大成なんだよね。ミュ10で描かれているのは
「乱世という けして平和とはいえない時代に生まれてはいるけど、同じ空の下で同じ時代を共に生き抜く仲間が自分にはいる」ということ、「夢を叶えるために前へ進む」こと、「前へ一歩足を踏み出す勇気のある者に道は開ける」ということ、「守りたいものを守るために生き抜き、闘う」ということ、そして「生きろ」と。


・ミュ10の音楽の演出の仕方って、かなりテニミュの音楽での盛り上げ方に近いものを感じる。つまりは令和の時代であの90年代テイスト満天で、ドラマティックでドラスティックで……。
「新しい風が吹く……♪」はテニミュの爽やかさに近いのだけど、「愛しき者を守るため……♪」はウテナのドラスティックさに雰囲気が近い。宝塚にも雰囲気が近い。なんとなくの話。


・土井先生の子守唄、言葉が関西の言葉だったから、あれは半助の幼少期の記憶に残っている子守唄なのだと思っている。




・忍術学園の校歌(学園歌)の「乱世の闇を切り裂け」って歌詞があまりに胸アツで熱い涙が頬を伝う。そうなんだ、やっぱり忍タマの皆は乱世を生き抜く己のために忍術を学ぶのではなく(その意味もあるだろうけど)、乱世の闇を切り裂いて平和な世へと導く使命を背負っていて、そのために忍術を学んでいるんだ……!! 乱世の闇を切り裂いてその世界の隙間から光の筋がこぼれるようにするための術、忍術を学ぶんだ……そうなんだよ!!

忍術を「無敵の術」と表現しているところも好き。
忍術で敵を蹴散らすのではなく、敵を敵としない(=無とする)ための術としての忍術……ってところに通ずるように感じられて。
忍術は敵を敵とせず、世界を光に導くための術……。



・運動会が始まる前に「みんな~無茶しないでね!怪我に気をつけて~!」って言っていたのに、運動会の中盤で誰よりもボロボロに怪我してそれでも仲間たちを助けようと敵に突っ込んでいく伊作、泣く。伊作さんは勇気がある。


・武器紹介曲の文次郎の「熱い血潮がみなぎるぜ!!」、潮江→血潮の組み合わせはいつかやってくれたら嬉しいもの第一位だったから、また一つやってほしいことをやってもらえて胸が一杯。

熱き血潮の兄弟(聖闘士星矢クラスタのこと)だから、熱い血潮というワードを聞いた瞬間にそれこそ私の熱き血潮がグワッッッと沸き上がる。文次郎の身体に流れる熱き血潮を感じる……!!
文次郎が熱き血潮が体内に流れる私の推し二人目になった。一人目は紫龍です(ドラゴンブラッド……さかまく血が聞こえるぜ……!!)



・そうそう、第8弾で完全に少年の階段を駆け上がりきってしまった文次郎の少年期の卒業を見送ったのに第10弾の文次郎を私は迎え入れることができるのだろうか……と不安だったのだけど、ミュ10の文次郎は"いつも学園にいる"いつもの文次郎だったから普通に受け入れることができた。それが嬉しかった。

文次郎も仙蔵も小平太も長次も、滝夜叉丸も三木ヱ門も喜八郎も、ずっといつものように学園で次の冒険の時を待っていたんだな。ミュに出なかった時も同じ空の下で彼らは生きていたんだ。

アニメとも原作とも違いそこには時間が流れていて、上級生たちの少年期の砂時計が少しずつさらさらと落ちてゆくその切なさが描かれているのが忍ミュの醍醐味ではあるのだけど、会場に行けばいつものように忍タマのみんながいる嬉しさがミュ10にはある。


・ミュ10の小平太、いつもぱあっと明るい笑顔を絶やさない表情の演技が素敵。踊っている時も何かしているときもずっと笑顔を絶やさないの……。でもそんな小平太がドスマスとの最終決戦の時は真面目な鋭い目をしていたから死。
じょうじさん小平太もいつも明るい笑顔を見せていたのが印象的だった……と、きむさん小平太の笑顔を見て記憶が一気に甦ってきた。


・ミュ10の武器紹介曲はなぜあんなに重々しい曲なのかと未だにびっくりしているのだけど、「恐れなき者の前に道は開ける」は自身の怪我をもいとわず目の前のものめがけて突っ走る伊作のことを指しているのか……?

「恐れなき者の前に道は開ける」と「踏み出す勇気 明日の自分に出会うんだ」と「勇気をもって前に進もう 時の向こうにある明日」は似ている。




・そうなんですよね、ミュ8と9は主役の五年生との対比で六年生は「忍タマたちを見守る大人ポジション」として描かれていたのだけど、ミュ10は六年生含めた忍タマ全員が「学園という保護下におかれた発展途上の忍タマ」として描かれているんですよね。今回の大人の介入っぷりはミュ5初演とミュ8再演に近いものがある。
忍ミュは忍タマ上級生たちにどこまで主体的に行動させるか、それとも保護下に置かれ大人たちの介入があるのかが一つのポイントになってくる。



・ミュ10が我々に伝えようとしていたことは「生きていなければ守りたい者を守れない」「生き延びなければ目的は果たせない」「生き延びなくては情報を伝えることはできない」だったのだとフォロイーさんとお話して改めて強く感じた。
生きろ、生きなくてはならない。何のために? 守りたい者を守るために。夢を現実にするために。
風立ちぬ、いざ生きめやも」か……はあ……。



・ドクタケが「一日一回悪いこと」ハッ! と歌う前の「悪は世の為 人の為」で「ドクタケって己が為でなくて世のため人のためという意識で悪事をしていたの……!?!?」とものすごく驚いたのだけど、ドクタケさん達にも家族がいて愛しき人、守るべきものがあるのだろうな……と考えてからは、ドクタケは絶対悪ではなくあくまで忍術学園と対比した時の相対悪であって、真の悪は誰にどう決められようかと思うようになった。

でもドクタケさん方、悪事をしている自覚はあるんだよな。



・忍術学園を卒業してから、敵対する軍勢に属して互いに刃を向けることになるのなら、果たして学園長が在学時に委員会を越えた結束を高めようとするか??

忍たまで描かれているものの一つに「人と人との繋がり」「世界に仲間を作ることの強み」があると思っているから、学園長も忍タマたちの将来のことを考えて、学園の生徒たちが一丸となるチームワークを高めようとしているのではないか。


・文次郎も「愛しき者よ……♪」に参加しているのなら、文次郎にも「愛しき者を守る」という意識が存在すると思っていいですか?? 文次郎も守りたい者を守るために闘うんだよな、はあ……(幻覚)


百錬(六年生の武器紹介曲)の「恐れなき者の前に道は開ける」を土井先生が後半で「愛しき者よ 心のままに描く道 恐れずに行け 若き勇者よ」と忍タマたちに伝えているのだと考えると胸アツだよな……。
この二つのフレーズ、後半の愛しき者でリフレインしていると感じたから。



・守一郎ソロパートの「今日という日が辛くても 最後に笑えばそれでいい」って、「最後に笑えば」の「笑えば」が守一郎のゲラ設定とかかっていたんだ……と超いまさら気が付いた。フツーにヒネりなしでかかっていた。



・「愛しき者よ 心のままに描く道 恐れずに行け 若き勇者よ」は六年武器曲の「恐れなき者の前に道は開ける」と同義であり、六年い組がミュ8で語った「踏み出す勇気 明日の自分に出会うんだ」とも同義で

ミュ9の「勇気をもって前に進もう 時の向こうにある明日」にも近いものがある。
すべては繋がっているんだ。ミュ8と9でたどり着いたものをミュ10は再編成している。



・伊作も「自分が傷付くことも厭わずに、愛しき者を守る」レベルがMAXになったら、雑渡さんのように全身火傷を負って守るべきものを守ったりするのかな……。伊作も雑渡さんと同じような姿になる未来が少し見える。
ミュ10の伊作と雑渡さんの過去を重ね合わせて、そんなことを考えたりしたのでした。


・ミュ9の伊作さんはな、いつでも道は拓けると信じていて、己が歩む道は希望の道なのだと信じている伊作さんなんだよ……ミュ10の伊作も第9弾のこの信念を掲げた伊作と同一人物だと思わずにはいられない。



・ミュ10初演が描いていたのは「新しい解釈」ではなく、「そうそう、そのキャラクターはこの場面ではこうする!」とファンなら見ていてニヤリとするような「原作とのシンクロ」。そのシンクロ率がミュ10初演は高かった。


・忍術学園の校歌(学園歌)の「乱世の闇を切り裂け」って歌詞があまりに胸アツで熱い涙が頬を伝う。そうなんだ、やっぱり忍タマの皆は乱世を生き抜く己のために忍術を学ぶのではなく(その意味もあるだろうけど)、乱世の闇を切り裂いて平和な世へと導く使命を背負っていて、そのために忍術を学んでいるんだ……!! 乱世の闇を切り裂いてその世界の隙間から光の筋がこぼれるようにするための術、忍術を学ぶんだ……そうなんだよ!!

忍術を「無敵の術」と表現しているところも好き。
忍術で敵を蹴散らすのではなく、敵を敵としない(=無とする)ための術としての忍術……ってところに通ずるように感じられて。
忍術は敵を敵とせず、世界を光に導くための術……。


・忍術学園の学園歌を、「無敵の術を身に付け 乱世の闇を切り裂け」と歌っている時の文次郎の目がとても澄んでいて、キラリと輝いていてとても美しかった。
文次郎だけではなく、学園歌を歌う忍タマみんなの目が美しかった。


・「愛しき人を守るため……」の歌、「推しは世界のために死んでほしい」と言っていた私に「己が生きていなくては守りたい者を守れない」と教えてくれた。大切なものを守るには生きていないと守れないんだ。



・オープニングの「今ここに新しい風が吹く……♪」の歌、オープニングで既に忍ミュに新しい風が吹いたと感じさせる力を持っている曲。けれども「もう振り向く場所はないけれど」に少し陰りが感じられるのはなぜだろう。意味深。



・みゅ10のラストの歌とシーンはどうしてリアルでは既に散った桜なのかがずっと気になっていた(既に桜が散った5月に公演が行われるのはわかっていたはず)のだけど、牡羊座の伊作に合わせて桜のシーズンの話にしたのか……と考えたら納得した。
前回のミュ第9弾は魚座雷蔵が魚から牡羊のステージへと進む物語、第10弾は一巡りして牡羊の「再生」→「新たな始まり」のステージにまでたどり着いた。

「桜という花は歓びの象徴にもなるし散りゆくものの象徴ともなる解釈が分かれる花」的なツイートを以前お見かけしたのだけど、今回の忍ミュで桜は前へと進むポジティブなものだとイメージづけてもらった。



・みゅ10のラストのタスキをキノコ裏々山の頂上に到着した皆で振るシーン、じいんとくるけど誰に向かって振っているのかいまだにわかっていない。
実習や社会見学等々に出掛けている他の忍タマみんなに向けて振っていたのだと私は思っているのだけど、本当のところはわからない。
だから劇中で今回不在の雷蔵と三郎の話が出たけれど、雷蔵と三郎だけでなくその場にいない忍タマ全員のことも実は劇中で間接的に触れられているのではないかと……そういう解釈。今のところは。



・第10弾を一言で表現するとしたら、「『これぞ忍者の大運動会だ』であり『これが忍ミュの最適解だ』」の一言に尽きる。忍ミュは10作目でついに「これこそが忍ミュだ」という最適解に辿り着いた。
忍ミュは漫画作品『落第忍者乱太郎』を原作とするアニメ作品「忍たま乱太郎」を舞台化した作品群だ。
忍ミュ第10弾はアニメ「忍たま乱太郎」の舞台化作品でもあり、原作漫画『落第忍者乱太郎』の舞台化作品でもある。どちらかだけではなく、両方だ。

同行してくれた方が第10弾を観た時に「学園祭で披露することまで考えた曲作りがされていた」と言っていたのが面白かった。何が面白かったのかというと、私と180度違う感想を抱いたところ。
私は忍ミュ第10弾は「舞台を、作品を盛り上げる舞台装置としての曲作り」に徹底していると感じている。
第10弾は脚本はさほど捻りがあるものではなく、誰もが楽しめるシンプルな王道の展開が描かれている。シンプルな王道展開の脚本を忍ミュ10はどうやってドラマティックに描いているのか? 忍ミュ最多人数の上級生らによる画面の力と、音楽が持つ力でドラマを描いているのだ。音楽の力には限りがない。広げようと思えばどこまでも世界の広がりを描写できる。音楽は限りなくどこまでもドラマティックに情景を描くことができる。


学園祭のお祭りムードが好きな人も、完成された舞台作品としてのミュージカルが好きな人も、アドリブが好きな人も、シナリオがきっちり組まれている脚本が好きな人も、原作派の人も、アニメ派の人も、小さな子どもも、大人も、シュールギャグも、狂気も、ハラハラドキドキも、胸打たれる感動も、忍ミュ第10弾はあらゆるものを求める全ての人をターゲットにし、それらの要素を全て盛り込んでいる。
いわば忍ミュ第10弾はあらゆるもの全てをトッピングしてしまった「二郎系忍ミュ」だ。
アドリブ舞台好き派も、キッチリ計算され尽くした舞台が好き派も、ギャグ好き派も、シリアス好き派も……と全部乗せして全てを求めたら二兎を追う者は一兎をも得ずに終わるのが通例だが、忍ミュ第10弾は全てを追い求めて作品に全部乗せして、なんとそれが成功している。混ぜ込んだ全ての食材がうまい具合に調和して、エモい味わいを出すことに成功している。忍ミュ第10弾のとんでもなさはそこにあるのだ。


忍ミュ第10弾、間違いなく面白いです。




・玉投げで刀印を結ぶ時にちゃんと刀印を鞘から抜いてから九字を切るんだよな……細かいところちゃんとしている……。



・第10弾のラストの伊作と乱太郎の「ミツバチに刺されて到着が遅れた」は伊作が足に怪我を負ったために山道を歩くのに苦労して到着が遅れ、足の怪我を皆に心配させないための嘘だと初見時に解釈したのだけど、運動会が始まる前に「みんな、無茶しないでね~怪我に気をつけて!」と皆に言った手前、自分が無茶をして怪我を負ったと悟られたくない伊作の意地もあるのかもしれない。



・みゅ10、「共に歩む仲間」から終盤になると意識が「愛しき者」「己が守るべき存在」に意識の変化が忍タマたちに見られる。愛しき皆を守るために己が戦わなくては、という意識に変わる。ところで愛しき人って誰のこと?


忍ミュで忍タマたちは守りたいもの、大切なものは何なのかを探している。その答えを探している。

第2弾では、六年生は自分たちを六年間育ててくれた学園長が「守りたい者」だと気付いた。
第5弾で六年生と四年生は「君を失いたくない」「仲間を失いたくない」と語る。
第6弾では、伊作は「今 目の前にいる人を救いたいだけ」と歌う。伊作と留三郎という仲間を失いそうな危機に陥った六年生たちは、最後には「護るべきものはもう決めた」と答えを見つけた。
第7弾では学園長が「愛すべきたくさんの人を失いくじけることもある」と歌う。
第9弾では、忍術学園をドクタケに奪われた五年生と六年生が「もう二度と大切なもの無くさない」と歌う。
そして……第10弾で上級生たちは「愛しき者を守るため 恐れを捨てて掘り進め」と歌う。

忍ミュの物語で経験を積むにつれ、六年生は第2弾で「学園長を守りたい」、第5弾初演では「後輩の三木ヱ門と滝夜叉丸の二人を失いたくない」と身近な存在を守りたいと強く願う。
そして注目すべきは、第5弾で学園長がタソガレジンベーとの直接対決の時に歌う歌に出てくる「人の暮らしの中 優しく生きる」という歌詞。学園長は忍タマたちに「民に寄り添い生きてほしい」と願っているのだ。
ここから上級生たちの内に芽生えた「守るべき者を守る」の意識は「学園の仲間たちを守りたい」から「民を守りたい」へと、身近な存在から不特定多数の民へと"守るべき者"の対象を広げてゆく。

私は第7弾の光に向かっての「愛すべきたくさんの人を失いくじけることもある」の「愛すべきたくさんの人」とは、「慈愛を向けるべき存在=不特定多数の民」だと考えている。忍タマたちは将来 忍者になって、例えば園田村編のように力を持たない民を守るために闘ってほしいと願っている。
忍ミュで語られる「守るべき存在」の意識は第5弾以降、「身近な存在」から「不特定多数」へと範囲が広がりつつある。

つまり、第10弾の「愛しき人よ」の「愛しき人」とは、苦楽を共にしてきた仲間たちのことであり、愛すべき不特定多数の力を持たない民のこと。「愛しき」という情は「慈愛」なのである。



・忍ミュはずっと「乱世を生き抜け」と忍タマたちに伝えてきたけど、忍術学園学園歌はそこから一歩進んで「乱世の闇を切り裂け」と歌っているのがあまりに好きすぎる……。

そうなんだよ、忍タマたちは乱世を生き抜く無敵の術を得て乱世を生き抜くだけでなくその一歩先、己が得た力を用いて世界に関与して世界をより良い方向へ導く存在になってほしいんだよ……。



・伊作が座長の話は過去に第6弾があったけど、第6弾は終始伊作が幻術にかかるというイレギュラーな状況に置かれたまま物語が進むから、ストレートに伊作が物語中で活躍を見せる話は第10弾が初めてになるんだな。



・愛しき人よの「我が道に咲くこの花を 踏みにじる者 闇に散れ」って歌詞が好きだ。
力を持たない非力な花を踏みにじる強大な力にも臆せず立ち向かう、愛しきものを踏みにじられた怒髪天が表現されている。
闇に散れ って表現がちょっと怖いな。闇に葬られそう。



・学園歌の「熱く清き心」という言葉が好きだ!!! 忍タマに求められる心がこの五文字に全て込められている。そうだ忍タマたちよ、熱く清くあれ……。



・山田先生のこの伊作の助太刀、おそらくはじき玉で刀を弾いているのよね……それか印地打ち。



・わたし第6弾が大好きなのだけど、第6弾も伊作座長の伊作メインの話だと思わせておいて、第6弾は伊作が幻術にかかって仲間たちに救われる話だった。第10弾は伊作の優しさと強さ、胸が熱くなるところを正面から描いている話。

「傷付いた者を癒す」という描写でドラマを描くのは、何だかひとヒネりあるような気がする。伊作は傷付いた者の命を守るため、真っ先にかけつける。



・そうなんですよね、ミュ8と9は主役の五年生との対比で六年生は「忍タマたちを見守る大人ポジション」として描かれていたのだけど、ミュ10は六年生含めた忍タマ全員が「学園という保護下におかれた発展途上の忍タマ」として描かれているんですよね。今回の大人の介入っぷりはミュ5初演とミュ8再演に近いものがある。

忍ミュは忍タマ上級生たちにどこまで主体的に行動させるか、それとも保護下に置かれ大人たちの介入があるのかが一つのポイントになってくる。



忍たまわっしょい、初期の忍たまの曲にあってもおかしくない90年代初頭感あるサウンドが好き。「やれること やってみるよ~♪」と同じくらい好き。ネタとしても好き。



・チームどんぐりをどんぐりさんと呼ぶ文次郎、もはや幼少期にどんぐりを「どんぐりさん」と呼んでいたのが無意識的に癖になっていて、自分でも気付いていない説ある(ない)



・文次郎の「運動会は~生きるか死ぬかだ!!」を聞いて、同行者さんと二人で「生きるか死ぬかがやりたけりゃ一人でやってろ!! 他の人間を巻き込むな!!」という話で盛り上がったのが観劇時の思い出。



・ミュ10が我々に伝えようとしていたことは「生きていなければ守りたい者を守れない」「生き延びなければ目的は果たせない」「生き延びなくては情報を伝えることはできない」だったのだとフォロイーさんとお話して改めて強く感じた。

生きろ、生きなくてはならない。何のために? 守りたい者を守るために。夢を現実にするために。



「愛しき者よ この先君が歩む道 苦しいときは 空を見上げて 風に吹かれて 歩いてゆこう きっと涙も乾くから」は「苦しいことがあったとしても、今は苦しくても生きていればいずれ笑える時が来る」という意味なのだと教えていただいた。

伊作が乱太郎に、長次がきり丸に、留三郎が乱太郎に意志を伝えることで、乱太郎たちもまた伊作先輩たちのように未来の後輩にこの思いを伝え、そうやって未来へこの熱き思いと「生きろ」というメッセージは受け継がれてゆくのだとわかって涙……。



・そうそう、文次郎は「運動会は生きるか死ぬかだ!!」とは言っていたけど、やはり忍タマだから「忍者はどんなに苦しくても生き延びなくてはならん」ってスタンスなんです。生きるか死ぬかは「全身全霊で打ち込め」であって。


第10弾初演 愛知公演


・第10弾愛知公演一日目マチネ、選手入場の時に乱太郎が伊作の救急箱を抱えているのを見た瞬間にジワッときた……。ミュ10のテーマの一つに「受け継がれる、伝えられる意志」があると思っているから

追記をとじる

伊作の思い、伊作の意志が乱太郎に受け継がれた……!!と心打たれた。
伊作のかわりに留三郎がドスカラスと闘って脚を痛めた時も、乱太郎が伊作の救急箱に加えて留三郎の鉄双節棍を拾い上げていて、乱太郎に伊作と留三郎の意志が受け継がれているのだ、とそこでまたジーンときた。



・第10弾愛知公演、留三郎と乱太郎が伊作の役目を主に引き受けたから留三郎がドスカラスから乱太郎を守ることになるのだけど、留三郎が山田先生から「よくぞ守った」と褒められるのは伊作が褒められるのとはまた違う滾る何かがあるよね……と思ってしまった。伊作とはニュアンスが変わってくる。気がする。


・第10弾、忍タマたちが敵いそうにない敵に立ち向かっていくのが滾る。敵いそうにない敵に立ち向かっていくのもまたドラマとなる。



・第10弾愛知公演、個人的には最後に留三郎が歌う桜の歌が一番こみあげてくるものがあった。本来は伊作と乱太郎を待つ立場の留三郎が脚本変更で桜の咲くキノコ山へ向かう立場に変わり、「行こう 桜の咲く場所へ」的な歌詞が完全にリンクした。



・第10弾愛知公演の脚本演出変更を目の当たりにして、そういえば留三郎役の秋沢さんは初めて留三郎役に抜擢された時もピンチヒッターとして忍ミュに来てくださったのだった……と第7弾の留三郎役変更のことを思い出した。



・第10弾愛知一日目マチネ、五年生の「おれたち、一人ぼっち委員会なんですけど!」のところで乱太郎が「私も!! 私も一人ぼっちなんですけど!!!!」とめちゃくちゃ学園長にアピールしていて不意打ちで笑った。



・文次郎の槍の柄を地面にビタン!!と叩き付けて音を出すモーション、大好きなんだよね~!!!! ビタン!!という音が戦闘モードに入るスイッチになる。一種の儀式のようで。

実写版第二弾の、文次郎が袋鎗を柄に取り付ける瞬間のカットが入るのも好き。袋鎗を柄にセットする動作も戦闘モードに切り替わるためのある種の儀式らしさがある。



・第9弾は魚座雷蔵が、牡羊座の六年は組の二人の先輩から「生きていこうよ、希望の道はいつでも拓けるよ」と教えられ、雷蔵魚座から牡羊座へのステージへと進む話だと解釈しているのだけど、第10弾は第9弾のタスキを受け取った牡羊座の伊作と留三郎の話。一巡りしてまた春が来た。



・伊作役の反橋さんがパンフのインタビューで「(第10弾を観て)元気になった人は、その元気をひとりでも多くの人に伝えて、日本を元気にしましょう!」とコメントされていたその言葉が心に残っている。
忍ミュ第10弾を初めて観て「忍ミュから生きる活力を与えられたから、忍ミュから貰った元気を使って今度は私が世界に還元したい」と強く感じたのだけど、私が第10弾を観て感じたことを、そりさんはまさしくそのまま語っていらっしゃった。

東京公演で忍ミュ第10弾から元気を貰った我々が、今度は世界を元気にする番だ。
直接忍ミュのフォローをしなくてもいい、世界に還元すれば世界は昨日よりももっと元気になれる。そうやって少しずつ世界を善き方向へと進めることができる。我々も、戦を終結させて戦のない世の到来のため、世界を善き方向へと変えるために忍務にあたる忍タマたちに力添えができる。



・第10弾愛知公演、乱太郎と留三郎が伊作の役目を引き受けているから、伊作と乱太郎を待つ立場だった留三郎のかわりに守一郎が留三郎と乱太郎の帰りを待つ立場になるんだよね。キノコ山に到着した時の「チーム全員で到着することが必須条件」と告げられ、不安を抱きながらも留三郎と乱太郎を信じて待つ守一郎の表情が目に焼き付いている。


・第10弾愛知公演、何度も言うけど乱太郎が伊作の救急箱と留三郎の鉄双節棍の両方を一人で持つ図が本当に胸にクッとくる。実際に見ると本当にすごい。



・ミュ10愛知公演、留三郎も「愛しき者よ この先君が歩む道 苦しいときは 空を見上げて 風に吹かれて 歩いてゆこう きっと涙も 乾くから」と歌い後輩に伝えることで、ミュ9で「大切なもの 無くさぬように 守り抜くんだ」と歌い、五年生の五人に「俺たちもそうさ いつだって今も いつでも道は拓けるよ 希望の道歩こうよ」と伝える六年は組と完全に重なった。
守るべきものを守るために全力で障害に立ち向かうけど、希望の道を歩こうよ、生きていこうよと伝える六年は組だった。
ミュ10を観た方はミュ9も見てほしいという話です。



・ミュ10で一番好きな歌詞のフレーズは学園歌の「無敵の術を身につけ 乱世の闇を切り裂け」です。
「乱世の闇を生き抜け」ではなく「切り裂け」なのが本当にやばくない!? 忍タマたちには乱世の闇を切り裂き世界に光の筋を入れる人間になってもらいたいんだよ。

忍タマたちは未来のヒーローになる存在だと思っているから、私。世界の救世主になる存在だと信じているから……。


・忍ミュはね、最初は「戦国乱世を生き抜け」と忍タマ上級生たちに伝えていたのだけど、第5弾初演で「街に流れる川の支流のように、人の暮らしの中で優しく生きろ」と学園長が忍タマたちに伝え、そして今回の「乱世の闇を 切り裂け」ですよ。



・「今ここに新しい風が吹く」にしろ「風よ吹け 吹き荒れろ」にしろ「風に吹かれて 歩いてゆこう きっと涙も乾くから」にしろ、ミュ5再とミュ10の「風」は何かのメタファーであることは間違いないですね(間違いないとか言っちゃう)

第5弾再演の「風よどうか教えてほしい」「風よどうか伝えてほしい」「風の中でしか見えない明日がある 歌えない唄がある」の「風」は青春時代の、忍術学園で仲間たちと共に過ごす忍タマ時代のメタファーだと聞いたのだけど、第10弾の風は何のメタファーなのかはまだ考えているところ。

第10弾の「今ここに新しい風が吹く」と「新しい風に吹かれて」は、忍ミュの制作スタッフを一新したことで忍ミュに新しい風を取り入れたことを示唆しているのであって、新しい一日の始まり、日々昨日の自分を更新する忍タマたちを示しているのだと思っているけど、それ以外の「風」の意味がわからない。


・伊作は何かが起きるといてもたってもいられず危険なところへも弾丸のようにすっ飛んでいくけど、その結果満身創痍になっても必ず戻るべき場所へ戻ってきてくれるとミュ10で証明されたから。

自分の元を離れても必ず戻ってきてくれるのが伊作。
遠くへ行ってしまったきり帰ってこないのが雷蔵



・ミュ10愛知公演、「同じ空の下 同じ時の中 共に歩み 時を刻み……♪」の時に文次郎と留三郎が隣同士に並んで踊っていて、ああ 同じ時を共に歩むかけがえのない仲間がいるって本当に幸せなことだなとぐっときた。手裏剣と風と雲と飯と好敵手、あれば幸せ……!!



・愛しき者よの守一郎パート、「今日という日が辛くても 最後に笑えればそれでいい」かと思っていたのだけど「最後に笑えばそれでいい」だったんだな。「笑えれば」と「笑えば」ではかなり意味が変わってくるな……!?
空元気でもいいから笑え!!と守一郎は言っているんだよ。そんなの泣けるでしょ。



守一郎は「今日という日がどれだけ辛くても一日の最後に笑えたら、最後はめでたし ばんばんざーい!なんだ」と言っているんじゃないんだよ。「今日という日がどれだけ辛くとも、笑え!笑うんだ!から元気でも笑えば涙はいずれ渇くから」と守一郎は言っているんだよ……。


「今日という日が辛くても 最後に笑えばそれでいい」、そうべえセンセが何年前かの年賀状に書かれていた「から元気 でも元気」という言葉を思い出すな……。落乱スピリットが刻み込まれた言葉だよ……。