忍ミュ第11弾初演 感想

某流行り病の世界的・爆発的流行により今を生きる全人類が命の危険に晒され"死"がグッと身近なものとなった今日この頃、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
基礎疾患があるため抵抗力がゼロに等しい私は現在も引き続きステイホームを絶賛実施中です。
2020年10月についに幕が上がった忍ミュ第11弾初演、ステイホームしなければ割とガチで死にかねない私はもちろん配信で見ました。

会場物販でパンフレットを購入し、観劇後にパンフの歌詞のページで歌詞を確認し感想を吐き出し妄想に浸るのが私のいつもの忍ミュ観劇スタイルなのですが、今回は劇場での観劇を見送ったためパンフを通販で購入しました。
公演の配信日までには通販で購入したものが届くだろうとタカをくくっていましたが、なんと全然そんなことはなかったです。


そういうわけで今回の私の「初見時の感想」は、私の聴力と記憶力と走り書きの観劇メモという頼れない三銃士を元に展開していきます。


【この記事は第11弾のネタバレを含みます】



2020/10/25(東京楽) 配信を視聴。


文次郎はかなり危うかった

第11弾の文次郎はかなり危うかった。
どの点で危うかったか。
「文次郎も長次と同じように竹虎たち幽霊武者に憑かれて(支配されて)しまいかねなかった」点で危うかったと私は考えています。


皆さんご存知の通り、冒頭(アバンというやつですね)の荒れ屋敷の幽霊武者とのファーストコンタクトのシーンで長次は竹虎たちに名前を尋ねられ、本名を名乗ってしまいます。
長次は初っ端から本名を名乗ってしまった、幽霊武者たちに真名を自ら教えてしまったのです。


もうじき"大人のプロ忍者"として世に出る忍術学園の六年生ともなれば自分の本名、真名を他人に教えることの恐ろしさ(「真名を知られたら魂を支配される」という呪術的な意味でも、現代風に言うと個人情報、Fateシリーズ的に言うと己の弱み・弱点を他人に教えるという意味でも)を知っているはずで、名前を聞かれたあの瞬間に「適当に考えた偽名を名乗る」という判断がおそらくできるはずなのに。
沈黙の生き字引と呼ばれるほどの長次がどうして幽霊武者に「真名を名乗る」という選択をしたのか。



長次が幽霊武者に「真名を知られる」ことを許してしまった、その理由は何か?


三つの説を考えました。

①幽霊武者に取り込んでもらいたかった
②幽霊武者を幽霊だと思わなかった
③幽霊武者に真名を教えても、本当に魂を支配されるとは思わなかった


①「幽霊武者に取り込んでもらいたかった」
つまり「真名を自ら名乗り知ってもらう」選択をした説です。

「真名を伝える」=自分の弱みを伝える=自分を支配ないしコントロールする隙を与える とします。
自分の弱さを誰かに伝えてしまいたいと思う時、それは一体どんな時でしょうか。


「誰かの力にすがりたい時」ですね。
頭に「同情をひいて」という言葉が入るかもしれません。
なぜ長次は「誰かの力にすがりたい」と思ったのか?
長次は竹虎たち幽霊武者に初めて出会ったあの日のあの時、自分の弱さと不甲斐無さに直面し傷心していたからです。


長次はあの日の黄昏時、忍術学園への帰り道に「荒れ屋敷の前を通る"少し荒れている近道"」を選んでしまいます。
長次が冒頭で「少し荒れている近道を選んでしまったが」と言っていたので、おそらく長次がその近道を選ぶ最終決断を下したのでしょう。
しかしその「少し荒れている近道」にある荒れ屋敷は、土井先生も山田先生も学園長も「子どもたちを近付かせてはならない」と思っている。
教師陣がそう思っているということは、おそらく生徒に「あの荒れ屋敷には近付いてはならない」と指導をしているのではないでしょうか。
つまり、長次も先生から「あの荒れ屋敷には近付いてはいけない」と指導されている可能性がある。

先生からそう指導されているにも関わらず、長次はあの時「比較的安全な道よりも危険に晒される可能性があるけど、より早く学園に着きそうな"近道"」を、よりによって(長次は守ってあげなくてはならないとおそらく思っている)乱きりしんの三人と一緒にいる時に選んでしまった。
長次はあの時焦って「早く忍術学園へ戻らなければ」と思っていたのかもしれません。何故かはわかりませんが。
これが冒頭のシーンの長次のやらかしの一つ目。


言うまでもなく、長次のやらかしの二つ目は「しんべエが"見るからに剥がしたらヤバそうな荒れ屋敷の封印のお札"を剥がすことを許してしまった」ことですね。
そもそも長次が帰り道にあの"近道"を選ばなければ荒れ屋敷の前を通ることもなく、しんべエも封印のお札を剥がさなかったことでしょう。
いよいよここまでくると「長次が一緒についていながら何ということだ……」と思ってしまいます。なんだ、長次は思っていたよりもずっと頼りない子ではないかと。
あの物知りで「冷静に物事を見ることができる」長次がここまでやらかす!
たくさんの人を巻き込むという意味での事件も、一人の少年の長次の心の中に起きた「外から見たら小さいけれど、本人としては何よりも大きな事件」の始まりも感じさせる導入ですね。

三者の私から見ても「ここまでやらかして長次くん大丈夫か」と焦ったほどなので、長次本人はこの二つのやらかしをもっと深刻にとらえ自分の不甲斐なさに嫌気が差していたことでしょう。

けれども仙蔵もしんべエと喜三太の二人に翻弄されて何度も何度も失敗をおかしてしまうし、そこにもう一人増えた一年生三人を完璧にコントロールすることを長次に求めるのはかわいそうではあります。
"大人"の場数を踏んでいる忍者の先生の土井先生と山田先生ですら、乱きりしんに翻弄されていますからね。


溺れる者は藁にもすがる、死にかけの巴マミさんはキュウべえの契約にもすがる。
「自分はなんてダメなんだろう」「自分はなんて非力なんだろう」と落ち込んでいる時に「チカラガ……ホシイカ……」と契約を持ちかけられたら、不完全な少年は承諾してしまうに決まっています。
そして絶体絶命のピンチの時に魔の力を持つ者と契約を結び魔の力を得ると、その魔の力に蝕まれ「人間」ではなくなっていく、そして力を与えた魔の者が抱える問題に巻き込まれていくものです。オタクの世界では王道の展開です。
そして悪徳セールスマンは契約前に顧客に、契約を結ぶことで顧客が被るリスクの詳細を、ひどい時は顧客がリスクを被ることすら説明しないものです。全くひどい話ですね。

竹虎さんたちが意図して長次のココロのスキマにつけいる喪黒福造のようなこと*1をやったのかは不明ですが、長次が真名を名乗り契約に応じたあの時は、長次の心につけ入り契約書にサインを書かせる良いタイミングでした。

でも長次は完全にボランティア精神で、もしくはヤケっぱちで「幽霊武者に取り込まれてもいい」と契約に応じたというより、竹虎さんたちと契約を結ぶことで力が得られると感じ、自らの意思で契約書にサインを書いたように思われます。

なので「幽霊武者に取り込まれてもいい」は「力を欲し、力を得るために己の意思で真名を名乗る選択をした」と言い換えられます。



②幽霊武者を幽霊だと思わなかった

この説は正直あまり当てはまる自信はありません。
部分的に、もしくは「長次が自らの意思であえてそう思うようにしている」と考えることはできるかもしれません。

六年生と四年生+尾浜くんたちは、荒れ屋敷で出会う幽霊たちのことを「お化け」「化け物」と呼びます。
文次郎や仙蔵がアッチの世界(あの世)の住人を「おバケ」と呼んでいると、自然と口角が上がりますね。

けれども長次くんは幽霊の竹虎さんを「顔に傷のある男」「あの人」と呼ぶのです。
六年生たちが「お化け」「化け物」と一括りに呼び捨てるのに対し、長次は竹虎さんたちを「一人の人間」と見なして接しようとしている。
竹虎さんたちの呼び方の違いに、竹虎さんたち「お化け」と接するスタンスの違いが現れていると考えることもできるのではないでしょうか。

そのうえ長次は竹虎さんたちとの出会いを「夢でも幻でもない」と表現しています。
夢でも幻でもないとすれば、それは現実。
長次は竹虎さんたちを物語の登場人物ではなく「確かに存在する(した)実在の人物」として捉えているのではないでしょうか。



③幽霊武者に真名を教えても、本当に魂を支配されるとは思わなかった

本編中盤に忍者の三病について触れられます。
ミスを引き起こしやすい心の動き「恐れ、侮る、悩む」は厳禁という教えです。
第11弾は肝試しと幽霊の話なので「恐れ」に触れられることも、忍タマ少年の物語には少年の悩みがつきものなので「悩み」に触れられることも納得がいきます。

しかし、第11弾で一番強調されていたのは、恐れでもなく悩みでもなく「侮る」でした。
私はそう感じたのですが、皆さんはどうでしょうか。
そうなると「侮る」を強調される意味を考えなくては気が済みません。
登場人物の言動から読み取れる「侮る」ポイントを探さずにはいられません。


長次の言動から「侮りポイント」を探すとなると

  • 乱きりしんの三人を連れて荒れ屋敷の前を通る近道を通っても、何事も起きず無事に帰れると思った
  • 自分は幽霊武者に真名を教えても本当に魂を支配されるとは思わなかった=幽霊の霊力を侮っていた

の二つがわかりやすいと思います。


「幽霊の霊力を侮っていた」は先述した①「幽霊の力が欲しくて契約に応じた」とは矛盾します。
しかし「幽霊と契約することで力を得たかった」、けれども「まさか本当に力を与えられ対価を支払うことになるとは思わなかった」は同時に存在し得る感情だと思います。



ここで見出しの話に戻ると、竹虎さんたち幽霊武者と闘う時に幽霊武者の名乗りにつられて真名を名乗りそうになった文次郎も、あやうく長次と同様に幽霊武者に魂を支配されるところだったと言えそうです。
付けてもらいたてほやほやの名前を名乗りそうになったドクタケさん達もそうですね。

文次郎が幽霊武者に真名を教えようとした理由は何でしょうか、自分は幽霊武者と対等に闘えるという侮りでしょうか。
いくら考えてもわからないものはわからないので、次のトピックに進みます。



真言と仏さまと九字の呪文

ここから「ちょっとググって・ちょっと本で見て調べただけの付け焼き刃知識」をひたすら並べてそれを元に話をしていきます、その旨をご了承ください。


第11弾は真言を唱える匂わせやキーワードによる匂わせ、そしてお名前をそのまんま出すことで四尊(仏さまを数える単位)の仏さまの存在を匂わせていますね。

の四尊です。



不動明王との関連

私のこの記事を読んでいる時点で皆さんは既にご存知だとは思いますが「ノウマク サンマンダ バサラダン カン」は不動明王のお力をお借りしたい時の呪文、つまり不動明王真言です。
ちなみに最後の「カン」は黄金聖闘士の乙女座のシャカの技の「カーン」と同じ、不動明王を表す梵字であると私は最近知りました。

不動明王さまはざっくり言うと「人間の利己的な欲望、煩悩を武力のパワーで叩き切り、人間を正しき道へと導くために軌道修正する」仏様だそうです。
「そうじゃないわあぁ!! そっちへ行くんじゃねえぇ!! 己に負けるなあぁ!!」と叱咤して力づくで軌道修正してくださいそうですね。


第11弾において不動明王さまの真言はシーンによって「厄除け」「勝利へとお導きください」「私の煩悩を断ち切り、正しい道へとお導きください」「私に喝を入れてください」なんかの意味で唱えられているように思われます。

絵本でも一年は組の担任の大木先生が妖怪の類をはらうためにこの真言(もうちょっと長いバージョンだったかもしれません)を唱えていたような気がしますが、ド忘れしたため出典は不明です。



大日如来

真言の歌では不動明王真言だけでなく「オン アビラウンケン ソワカ」という真言も唱えられます。
こちらは大日如来真言です。

大日如来さまは密教における最高位のほとけさまであり、宇宙そのものであり宇宙の全て、だそうです。スケールがとんでもないですね。
大日如来さまは昼だろうと夜だろうと関係なく何万光年の距離なんてものもまるで問題にならない、この宇宙のどこもかしこも誰をも照らす「智恵の光」で永遠に「闇を照らし」てくださるのだそうです。


密教修験道と関わりが深く、忍術は修験道と関わりが深い。よって忍術は密教と通ずるところがあります。
忍者が真言を唱えるのも印を結ぶのも、密教に由来しています。
密教には「印を結べ」という教えがあるので、大日如来さまは2パターンどちらかの印を結んだお姿の像が造られたり描かれたりしています。

「オン アビラウンケン ソワカ」は九字印の「烈」の印(智拳印)と関わりが深いらしい……のですが、サイトによってはもう一つの大日如来さまの真言と紐づけられているように書かれてあったりもして結局どちらなのかよくわかりません。要確認です。


大日如来さまは全てを司る仏さまということで、不動明王大日如来の「もうこうなったら怒って力づくで導いてやるしかないわい!!」モードであり、つまり不動明王さま=大日如来さまなのだそうです。



③摩利支天

忍ミュ第7弾の亡霊の方なら「闇に忍べ」で隠れる時に唱える真言で、そうでなくてもやはり隠密する時に唱える「オン アニチ マリシエイ ソワカ」でお馴染みの神さまです。
乱きりしんに言わせると「おん あちち くり シェイク サワー」です。

第11弾では摩利支天の真言は引用されていませんが(言い切れる自信はないです)、真言の歌に「暁の女神」というキーワードによる匂わせがあります。

摩利支天は「隠す、隠れる」ご利益のある陽炎の神、太陽と月の光の神であり、そして戦いの神様です。



地蔵菩薩

この四尊の中で第11弾本編で唯一お名前を挙げられた(自信はないです)仏さま、お地蔵様です。

お地蔵さまはこの世、人間界にも直接足を運んでくださり現世の我々をも救ってくださる仏さまです。
(でも大日如来さまも不動明王さまも現世利益のご利益がある仏さまだそうです)
そしてお地蔵さまというと、賽の河原で子どもを救う仏さまでもありますね。

忍タマたちが本編中でお地蔵さまのお名前を呼ぶように、よく道端でお地蔵さまの像を見かけるように、忍タマたちにとって身近な仏さまです。



九字の呪文との関連

九字護身法などという呼び方もありますが、ここでは忍たまで用いられる呼称「九字の呪文」で統一します。

九字の呪文、乱きりしん的には「かんぴょうトーフいかオムレツぜんざい」も第11弾で引用されていましたね。
九字の呪文はリラックスしつつも集中して冷静になるために、恐怖心を取り除くために唱える呪文です。
絵本では「唱えると元気がわいてくる栄養ドリンクのような呪文」的に表現されています。


私は文次郎の「ギンギーン!!」は「文次郎オリジナルの九字の呪文」と思っています。
文次郎が自分を鼓舞する時に唱える呪文という解釈です。

文次郎最推しの私も「こんなにビビるか??」と思うほどおバケにビビり散らかしていた第11弾の文次郎ですが、竹虎さんたち幽霊武者と闘う時に文次郎はね……「ギンギーン!!」と声に出して己を鼓舞して勇気を奮い立たせて立ち向かっていくんですよ……。
あんなにブルッッブルにおバケに震え上がる情けない姿を晒しまくった文次郎が……泣いてしまいます。
今回は珍しく、文次郎の話はこれで終わりです。


長次と小平太もオリジナルの「九字の呪文」、自分を鼓舞するおまじないを持っています。
それは「小平太/長次と一緒にいること」。

回想シーンの歌で二人は「一緒にいると勇気が湧いてくる」と歌っています。
「君が傍にいてくれれば百人力だ」を地でいく歌詞です。
「君が傍にいてくれたら、私は君からもらった勇気で羽ばたきこの世界の不特定多数の人を救うんだ」と言っているような気がしてきます。


第11弾はここがすごい!

第11弾は伏線の張り方といいますか、観客に「わかった!」とアハ体験をさせるための情報の提供の仕方が非常に上手い……。
物語の謎の答えとなる情報をそのまま与えずに、けれども観客が答えを導き出せるヒントを与えることで観客が「わかった!」と快感を得られる。
その塩梅が非常に上手くて、本編視聴中ずっと唸りっぱなしでした。


まずアバン(冒頭)の黄昏時に長次が竹虎さん達に出会うシーン。
この世とあの世が交わる時間の黄昏時=誰そ彼時に幽霊武者と出会い幽霊武者が「お前は誰だ」と長次に名前を尋ねる、そこから第11弾の物語は始まるのです……既にすごくありませんか?
上演開始から数十分でここまで観客の心を掴んでくる第11弾、怖くないですか?



もう一つ、滝夜叉丸と三木ヱ門が荒れ屋敷の「マックラの間」で自分が骸に変わる幻覚を見た後に、長次が幽霊武者と出会った時のことを思い出し、そして竹虎さんのことを「顔に傷のある男」と呼ぶ歌のシーン。

配信映像では長次がこのソロナンバーを歌う時にカメラが長次の顔をアップで映していたので、ステイホームでお楽しみのオタクは心の中で「顔に傷がある男ってお前だろ長次」とツッコミを入れたことでしょう。
顔に傷のある男が「顔に傷のある男」と言っていたらツッコミを入れたくもなります。

しかし「顔に傷がある男ってお前だろ長次」とツッコんでしまったオタクは、その直後に気付いてはならないことにも気付いてしまいます。
長次が呼ぶ「顔に傷のある男」は長次の写し鏡であり、滝夜叉丸と三木ヱ門が見た「自分が骸に変わる」幻覚は己が死ぬことを示唆しているのであり、そして長次も死へ足を踏み入れてしまうことに……。



極めつけにもう一つ、第11弾は「満月の夜」の背景が印象的ですね。
竹虎さんの顔の傷は「ミカヅキ山」での戦でつけられたという話もありました。

マックラの間は「月明かりが届かない」とのことなので、四年生の肝試しは夜に月が出ている日に行われたことがわかります。
四年生の肝試しの日の月の形がわかれば、「満月の夜の日」がそこから何日後の出来事なのか数えることができますが、残念ながら四年生の肝試しの日の月の形はわかりません。


さらに、「満月の夜」のシーンから数日が経過したと思われるシーンで再び「満月の夜」の背景が映し出されます。
太陰暦を知っている人間であれば「満月の夜」の背景が二回目に現れた時に「30日経ったんか?」と思います。

十五夜の満月を迎えた後、月は14日かけて徐々に欠けてゆき新月になります。
それからまた満月になるためにはさらに15日かかります。
つまり、満月の夜から次の満月の夜を迎えるには大体30日かかります。


しかしですよ、一度目の満月の夜から二度目の満月が現れた時に本当に30日が経過したのでしょうか。
30日はさすがに時間が経過しすぎではないでしょうか。

私はぶっちゃけこれに関しては「月相(月の形)が違うパターンの背景をいくつもを用意するのは大変だから、月夜のシーンは全部"満月の夜"の1パターンの背景で済ませた」というメタな大人の事情でこうなったのだと思っています。


ですが、どうでしょう。
もし「封印のお札が剥がされたその日から、荒れ屋敷から見える月の形が変わらなくなった」、つまり「荒れ屋敷の幽霊武者の封印が解かれたその日から、荒れ屋敷の周りだけ時が止まった」のだとしたら……。*2
「三日月山」という名前を出してきたことから、あの物語の世界には満月以外の形の月も空に浮かぶことがわかります。
それなのに見える月はいつも満月ということは……?


ちなみに「地蔵」は忍者の隠語で月を表すのだそうです。
36巻のカワキタケの壺編で雷蔵が言っていました。
忍タマ少年たちにとって身近な仏さまのお地蔵さまがここで繋がりました。

月明かりが暗い毎月(月齢換算)のこの日を選び潜入せよという教えの「地蔵薬師の前後を選ぶ法」から来ているのかもしれません。
では薬師如来はどこに行ってしまったのでしょうね。




忍タマ少年と闇と光

長次が幽霊武者に誘われあの世にいよいよ行ってしまいそうになり「長次を連れていかないで!」と不動明王真言を唱えるシーン、あのシーンの真言を唱える演出は不動明王大日如来の化身であることをこれでもかと活かしてきます。


不動明王さまは大日如来さまの「怒って力づくで導いてやるしかないモード」。
真言の歌で不動明王真言だけでなく大日如来真言も唱えるのは、六年生は大日如来さまの偉大な光の加護を受けたいと願っているということであり、そしてクライマックスで観客に真っ直ぐ力強くまばゆい光で目をくらませるための下ごしらえでもあったのです。

長次が自分の元へと帰ってきて欲しいという一心で不動明王真言を唱える小平太は、長次にとって、皆にとっての太陽の(幻覚です)小平太は、さらに強大な光で闇を照らし導く仏さまのお力と光にすがっていたのです。


そして「光よ我らを護りたまえ」という歌詞でトドメを刺してきます。
もうこうなったらオタクは尊さにひれ伏し、あまりの眩さで消し炭になるしかありません。

闇に身を委ね、闇へと染まってゆく、これから闇の世界で生きることになる忍タマ少年たちは光の加護を求めます。

第7弾の歌の歌詞を引用すると、「闇に忍べ!」と歌っていた忍タマ少年たちは物語の最後に「光に向かって……」と歌うのです。
闇に忍ぶ忍タマ少年たちは、光の射す方へ向かって駆けてゆくのです。





第11弾のテーマは「変化」と「変わらないもの」

第11弾の物語のテーマは「変化」と「変わらないもの」ではないだろうか、というのが今の私の見解です。


第11弾には「変化」の象徴がたくさん出てきます。

  • 平家物語の冒頭(祇園精舎の鐘の声……)
  • 顔にできた傷(顔に傷ができる前→傷ができた後の変化)
  • 顔に傷ができたことで長次は笑わなくなった
  • 身体の変化(成長)
    • 声変わり
    • かわいいあどけない顔→お父さんと間違われる老け顔
  • 月(日によってどんどん形が変わる)
  • 学園生活→大人として社会へ出る
  • 「上手になりたい」
  • 「強くなりたい」
  • 生と死
  • 死ぬことで起きる身体の変化(腐敗し白骨化)



①変わりたいと願うこと

第11弾を見るまで、私は長次のことを「安定、固定」が売りのキャラクターだと思っていました。
いつもどっしりとしていて安定感のある長次。
でも私は長次に「いつもどっしり構えていて冷静で的確な判断ができる子でいてね」と理想像を押し付けていたのです。

違う世界に住んでいる見知らぬオタクから理想像を押し付けられるのならまだいいですが、忍術学園の仲間たちや先生からその理想像を押し付けられていたとしたらどうでしょう。
長次は押し付けられた「冷静で取り乱さない子」のレッテルにとらわれ、とても息苦しさを感じるはずです。


私は長次に「変わらないこと」を求めていましたが、長次は「もっと縄ヒョウが上手くなりたい」「強くなりたい」と変化を切望していました。
本人は変化を切望していたのです。

私は「変わらないでいてほしい」と願うことで長次の求めるものをずっと否定してしまっていました。私は今、自責の念に駆られています。





祇園精舎の鐘の声


平家物語の冒頭部分はざっくり意訳すると「諸行無常だよ、変わらないものはないよ」「仏陀ですら死ぬよ、みんな必ず衰えるよ」「力のある者も必ず滅ぶよ」的なことを言っています。
もうアバンで琵琶法師を登場させ、平家物語の冒頭部分を語らせた意図がわかりますね。

祇園精舎にはお坊さんが最期を迎えるその日を待ち生活するための場所があり、お坊さんが亡くなると鐘を鳴らしたのだそうです。
祇園精舎の鐘の声はお坊さんが亡くなったお知らせの鐘。
一人のお坊さんが成仏したお知らせの鐘です。


第11弾でも、長次が幽霊武者と出会う前に金楽寺の鐘の音が聞こえませんでしたか?

あの金楽寺の鐘の音は「竹虎さんたち幽霊武者がいよいよ成仏できるようになるよ」という合図にも取れるかもしれません。*3






③身体の変化=成長

少年が少年から大人へとメタモルフォーゼする段階で直面する身体の変化、それは成長とも言えますが老化とも言えます。


忍ミュは11作目でついに「六年生が一年生だった時の姿」を我々観客に見せてきましたね。
これまでは六年生が「おれたちが一年生の頃は……」と思い出話をすることで「六年生が一年生だった頃」を言葉で匂わせていましたが、今回ついに生身の「一年生の時の長次と小平太」 が回想シーンで姿を現しました。

生身の破壊力って凄まじいですね。
一年生の頃の長次はこんなにも小さくて丸っこくてあどけなくて、声もかわいらしいボーイソプラノで……と、一年生の長次と六年生の"今"の長次の違いを味わってしまいます。
六年生の長次と一年生の頃の長次を同時に舞台へ登場させたら、違いを比べずにはいられません。



「子どもの死」「少年の死」とはどういうことか。

「大人になれないままに死んでしまう」ことであり、大人になれぬまま死んでしまったその子は「永遠の少年」として人々の記憶に刻まれます。


現代よりも子どもが大人になれないままに死んでしまう確率が高かった長次たちの時代、少年たちは「自分は大人になれるのだろうか」「大人になるまで生きていられるのだろうか」という不安を抱えていたかもしれません。


長次は幽霊武者に誘われアッチの世界(あの世)へ足を踏み入れそうになってしまう。
長次は「大人になれないままに死ぬ、永遠の少年」になりかけます。

けれども小平太は「長次を連れていかないで!!」と悲願します。


人間界で生きる人間は、四つの苦しみから逃れられません。
「生きること」「老いること」「病気になること」「死ぬこと」。

さらに「愛する者と離れること」「怨み憎んでいる者に出会うこと」「欲しいものが手に入らないこと」「肉体と精神が思うがままにならないこと」の四つの苦しみからも。
この八つの人間が逃れられない苦しみを、八苦というのだそうです。


人間界で人間として生きていくには、これだけの苦しみを己の身に受けなくてはなりません。
人間として生きるって、ものすごく辛くて苦しいことなんです。


それでも小平太は長次に「あの世へ行かないで」と呼びかけます。
小平太は長次に「これからも人間界で人間として生きて欲しい」「一緒に大人になろう」と呼びかけます。

小平太は長次に「これからも一緒に『生きること』『老いること』の苦しみを味わってほしい」と呼びかけるのです。


そして長次は「小平太と共に、皆と共に人間として未来を歩むこと」を選択します。
長次は苦しみだらけの人間として生きる道を選びます。
「人生は苦しみに溢れている、未来へと歩みを進めるとまた新たな苦しみを己の身に受けなくてはならないだろう。それでも私はお前たちと一緒に生きていきたい」が長次のアンサーです。*4




山は季節によって姿が変わります。
春には桜が咲き、夏は青々と葉を茂らせ、秋には赤や黄色に染まり、冬には葉が落ち寒々しい雪の色になります。
山は変化するものの象徴と言えそうです。


「山が綺麗だな」は「変化するもの、全ては諸行無常だからこそ美しい」「常に変化してゆく人間界で、共に人間として歩んでいこう」「八苦をこの身に受けることになるとしても、お前と一緒ならこの世界で生きていきたい」という長次と小平太の思いから生まれた掛け合いなのかもしれません。

*1:今のトレンドで言えばツイステのアズールの手口

*2:私の記憶はとても曖昧なので、次回配信を見返した時に満月の夜の背景を使うシーンを確認します

*3:祇園精舎の鐘は一般的にイメージするお寺の鐘と素材が違うため、金楽寺の鐘とは違う音が鳴るそうです

*4:もちろん私の幻覚です