忍ミュ5再メモ【文次郎と三木ヱ門について】

群衆劇として全体を捉えるのが難しかったから、まず文次郎と三木ヱ門に焦点を当てて考えてみた
いくつか思ったことはあるけれど、その中から確実にこれだ!と言える正解らしきものがあるとも思えず
考えを筋道立てて一つにまとめあげる事もできない
......ので、とりあえず 思ったことを挙げていきます。



自分が納得するために、一番最初に内容がわからないなりに考えたのは
忍(こころやいば)=血気の勇(一時の憤怒で剛強を働かせる)を捨て去り ただ一筋に義理の勇を心掛ける
⇒憤怒を露にし、感情に振り回された文次郎くんは心に刃をあてきれていなかった

今日また学んだことがあったね これからもっと己が理想とするギンギン「忍者」に近付けるように頑張って!
っていう話だったのではないかって事。


田村との衝突に堪えきれず叫ぶ→暴れる は
怒りが込み上げてきたり どうすればいいのかわからなくなっちゃったり、もうキャパシティオーバーで考えられなくなったんだろうな......
と、話がわかっていないけどあのシーンでは自分も胸がぎゅっと締め付けられた......。かずくんの迫真の演技、すごいの一言に尽きる。
田村も「私には重すぎる」と口にしていたけれど、おそらく文次郎の方もキャパオーバーだった。

これはただの感想ですが、ラストシーンで学園長が「真の新たなる敵は~」とケマトメ潮江の胸に手をあてて語りかける時のあの仕草と、かずくん文次郎の作中での出来事を思い起こしているかのようなあの眼差しがとっても好きです。
深く遥か遠くを見つめているようなあの表情。



田村の劇中での言動は正心がなっていなかった というのを見かけて
田村が「最新式の石火矢を打ちたいと思ってしまった」のが事件の発端(のうちの一つ)であり
事がこじれた原因→人のため という意識よりも、己の欲に溺れてしまった って事なのかな?と思ったりもした。

アイデンティティを形成するため自分を中心に据えがち
けれども「人のためにあれ」とするのが正心
忍タマ少年は忍者を志すにあたり、これらの間でしばしば葛藤するんだろうな......



文次郎は「自分がよかれと思って後輩を叱咤し厳しく鍛えている」 という大前提(自分の中で)がここでも適用されている。
(ドラマCDの「オレも(一緒に)やる!だから案ずるな!」的な台詞から 自分も後輩と一緒に鍛練に励んでやっているのに......というニュアンスがあるようにも窺える)
それを田村に正面から否定された事を純粋に「自分が拒絶された!否定された!」と受け取って、それが許せなかった......?
よかれと思って後輩を指導して"あげて"いるのにこの仕打ち、そりゃあ怒るかも。
最初にタソガレジンベーの近習にされてしまった平と田村を見付けたときは、田村が自分を拒絶して離れていったのだとは知らない と考えてオッケー?


だから、ラストのシーンでボロボロになって倒れている自分のところへ田村が来てくれたあとの言動は
「オレのところに戻ってきてくれてありがとう」「オレを受け入れてくれてありがとう」と思っての事っぽい......
という考えに至った。

もっとストレートにそのまんま「お前は戻ってくると信じていた、おかえり」って意味もあるだろうけど。
でもこれは平と田村 とくに田村に対しての信頼が前提にないと考えられないから再演の場合はどうだろう。



田村については、作中の台詞がどこまでが本当でどこからが嘘の発言かが判別できないからわからない......