忍ミュ第9弾は少年の再生の物語だ

忍ミュ第9弾、終わってしまいましたね。
忍ミュ9再演 大阪公演を観てきたので9再大阪公演の感想を書くつもりでしたが、再演の話でも大阪公演の話でもなくなってしまったので「ミュ9の話」というくくりで記事を書くことにします。


言うまでもないですが、あくまで私個人がミュ9を観て感じたことを書いているだけなので決して「これが正しい解釈だ」とは言い切れませんし押し付けるつもりもありません。
ブログタイトルは思いっきり断定形にしてしまいましたが、断定するつもりはありません。




忍ミュ第9弾のストーリーをざっくり説明するとしたら、私は「五年生が忍術学園奪還を目指す話」であり「忍術学園奪還は不可能だと思っていた雷蔵が仲間と一緒に忍術学園奪還を果たす話」と説明します。すまん 私は雷蔵が大好きなのだ。

すまんついでに話をすると、ドクタケに征服された忍術学園を取り返そう!と五年生のみんなが意気込んだ時、雷蔵はひとり「そんなこと できるのかな……」と不安をもらすのですよ。自分達で忍術学園を取り返すなんて到底 不可能だと思っていた。
けれども最後には、あの時は不可能だと思っていたことをやり遂げるのです。五年生の四人の仲間との絆と自分の決断と勇気が、夢のまた夢だと思っていたことを実現させた。到底叶わないと思っていたことを自分達の力で叶えられた。
雷蔵の最後の「忍術学園、取り戻したぞ~!!」には、夢だと思っていたことを自分たちの手で実現させられた驚きと喜びが内包されているように思えるんです。



ラストの「希望の道」のシーンを見たときに、ハッとしたんです。
ミュ9は不破雷蔵少年の再生の物語であり、ドクタケに忍術学園が攻め落とされた事件を経験して雷蔵は新しく生まれ変わったんだって。私自身の中では間違いなくそうなんだと、ハッとしたんです。



そういう訳で、「忍ミュ第9弾は少年の再生の物語だ」の少年とは不破雷蔵少年のことを指しています。
意味がわからないですか? そりゃそうでしょう、自分でも発想が飛躍しすぎだと思っています。今からどうしてその考えに至ったのかという話をしていきます。



落乱51巻との関連性

今回の話をするにあたり、落乱51巻の物語が前提にあります。
落乱51巻ってどんな話だ? ざっくりアニメの話で言うと、豆を移す習い編+委員長改選編+新しいトカゲ(バジリスクカノン砲・キャノン砲)と雷蔵の決断編が落乱51巻の内容です。豆を移す習い編と雷蔵の決断編*1は本来は一続きの話なんです。今回は委員長改選編のことは忘れてください。



豆を移す習い編~雷蔵の決断編はどんな話かと言いますと

ダブルサバイバルオリエンテーションの時に迷いグセを発動する様を目の当たりにした雑渡さんに、雷蔵は「迷いグセがある君は忍者になろうとだなんて思うな」とバッサリ言われてしまう。過酷な状況に身を置き迅速かつ正しい判断が求められる忍者にとって、優柔不断は命取りなのだ。優柔不断は自分の首を絞めることに他ならない。
プロ忍者の雑渡さんは、いつものおちゃらけムードを捨て 信じられないくらいに真面目なトーンで雷蔵に忠告する。
今だから思うのだけど、雑渡さんが真面目なトーンになるってよっぽどの事だと思いませんか? そのくらいのことなんです。雷蔵はこのままでは自身の優柔不断で命を落としかねない。


雑渡さんの忠告にショックを受けた雷蔵は優柔不断を克服し決断力を身に付けるため、土井先生に補習を申し出る。
なんて偉い子なんじゃ……!!
齢を重ねるにつれ夢を諦めて生きてきた私だから思うのですが、「お前の将来の夢は○○だけど、お前は○○の可能性のカケラもないのだからなろうと思うな」と言われたら諦めますよ。しかもその道のプロに言われたら。「お前は○○にはなってはいけない」って言われているんですよ。
私がもし雷蔵だったら、雑渡さんに忠告された直後に忍術学園を辞めてお里に帰る。

でも雷蔵はそうしなかった。迷いグセを克服するため補習を受けたいと申し出るんですよ。忍者になる夢を諦めるのではなく、自身の致命的弱点を克服して忍者になりたい。
優柔不断で迷いグセのある雷蔵がそのように意志を固めた時点で私は雷蔵に合格点をあげたいのだけど、このままでは雷蔵はいつか 多分近いうちに自身の優柔不断が原因で死にます。



優柔不断を克服する意志を固めた雷蔵は、直感力を高める補習を受け直感力を鍛える。
ちなみにここでいう直感力とは第六感(シックスセンス)とは異なり、過去の経験と事実から得られたデータから基づく判断のことを指す。直感力は単なる当てずっぽうの事ではないのだ。


以前 聖地巡礼をした時に七松八幡神社の宮司さんに、物事を判断する際にはまず「好き」「嫌い」「わからない」の三つに分類しろ と教えて頂いたことがあります。
「好き」「嫌い」「わからない」は、「選択する」「選択しない」「保留」と同義。
「好き」「嫌い」の分類は何を根拠にするのかというと、それは情報……データを基にするのだと。データが揃っていないものは「好き」「嫌い」の判断ができないので「わからない(=保留)」に振り分けられるんですね。

「わからない」のままでは選択のしようがないので、「好き」「嫌い」のどちらかに分類するためには、その事柄に関する情報を集める必要がある。
反対に、情報が揃えば 自ずと自分の選択が見えてくる。
己の選択の根拠は情報=データにあって、情報を集めることで自ずと答えが決まる。
そんな事を教えて頂きました。




その後 多数の敵忍者に忍び込まれ太刀打ちできずピンチに追い込まれた忍術学園。その時 雷蔵は鍛えた直感力と持ち前の発想力を用いてものすごい作戦を実行し、忍術学園をピンチから救うのです。


雷蔵が実行した作戦、本当にすごいんですよ。びっくりします。思い付くのも実行に移すまでの決断をするのも難しい作戦だと思います。
雷蔵はどんな作戦で忍術学園を救ったのか、これはぜひご自身の目で確かめてほしいです。
51巻の物語はここでおしまい。




……と ここまで話してわかるように、雷蔵はこんな物語を持っているキャラクターなんです。
ミュ9の物語は時系列としてはこのエピソードの前と後 どちらにあるかはわからないけど。


もっと言うと 忍ミュ第9弾のラストの「三郎がドクササコ軍の雑兵に化け、雷蔵が三郎に化けてドクササコとドクタケを欺く」シーンは、51巻のラストの雷蔵が決断するシーンを見た時と同じ感動を味わえるシーンなんです。




踏み出す者に明日は来る

雷蔵が提案した「三郎がドクササコ軍の雑兵に化け、雷蔵が三郎に化けてドクササコとドクタケを欺く」作戦は、提言し実行に移すに至るまで勇気が要る作戦だったと思っています。

自分しか持っていない情報をもとに「ドクササコを欺く」「ドクタケを欺く」考えに至るにも 自分達が手練れのプロ忍者のドクササコ忍者とドクタケ忍者を欺ける自信がないとこの発想に至らない。「こういうのはどうかな?」と発案するのも、自分しか持っていない情報を仲間が信じてくれると思わないと発言できない。提案を却下されることを恐れていたら発言できない。

そして三郎に化けて敵を欺くのも「もし見破られたら何をされるかわからない」恐怖に打ち勝たなくては実行できない。「もし自分の変装が見破られたら、掴まえられて首をはねられるかもな」と思ったかもしれない。見せつけで痛め付けられるかもなと思ったかもしれない。


「希望の道」で雷蔵がソロで歌う「勇気を持って 前に進もう」は、自分と仲間を信じる勇気・未来の到来を信じる勇気・提言する勇気・実行する勇気を雷蔵が持って作戦に至ったことを指しているのだと思っています。
雷蔵も五年生のみんなも、自分と仲間を信じたから忍術学園を取り戻す未来を手に入れられた。留三郎も伊作も、先生たちも、五年生のみんなを信じたから忍術学園を取り戻す未来を手に入れられた。忍術学園のみんなは、忍術学園を取り戻す明るい未来の到来を信じたから 忍術学園奪還を諦めず最後には学園を取り戻せた。


なお、「信じる勇気」についてはこの記事で書いています。




身隠しの盾オーディション編で「現時点で生きていることはその先に希望があることの証明」と言われていたが、「希望の道」はその言い換えだ。生を重ねたその先に希望が待っているから「希望の道」。
「希望の道」とは「人は皆 生きている時点で希望の道を歩んでいるんだよ」という無条件な生の肯定だ。人は皆 希望の道を歩いている。どんな人にも皆 希望がある。
生きていれば明日という未来、そして希望に到達する。生きていれば……。


けれども、生を重ねる先には困難や苦痛が待ち受けていることもまた事実だ。
希望の道の途中には多かれ少なかれ試練が待ち受けている。その試練を受ける勇気を持ち、前に進む者が未来に歩みを進められるのだ。
これを忍ミュ第8弾の言葉で言い換えると「踏み出す勇気 明日の自分に出会うんだ」となる。



雷蔵のターニングポイント

「希望の道」のシーンを見た時に確信したんです。
忍ミュ第9弾の物語は今回の事件を解決に導いた雷蔵にとってのターニングポイントとなり、雷蔵はここから新たなスタートを切ったのだと。


そう確信したのは、「希望の道」の伊作の「いつでも道は拓けるよ」という言葉。
この言葉を聞いた時、伊作がこの言葉を発する意味も 忍ミュ第9弾になぜ伊作と留三郎が五年生の先輩として登場するのかもわかったんです。全ての点と点が線で繋がったように感じました。




唐突に西洋占星術の話をします。
また星占いかよ! 「付き合ってやるか」という方はお付き合いください。


「いつでも道は拓けるよ 希望の道歩こうよ」、伊作は五年生の皆にそう言葉をかけます。道なき道を自分自身で開拓するその道が希望の道なのだと。

「開拓」は牡羊座が扱うキーワードです。牡羊座は困難を恐れずに自分の手で道を切り開いてゆく星座。恐れを知らずに突っ込んでいける勇気のある星座。
「勇気」も牡羊座のキーワードです。


そして「いつでも道は拓けるよ」と言う伊作は……牡羊座
「俺たちもそうさ いつだって今も」と最初に話を切り出す留三郎も……牡羊座


伊作と留三郎の二人が五年生に語りかけるこの歌は、牡羊座の伊作と留三郎だから伝えられることを五年生たちに伝えていたんだ……!! と納得したんです。



「希望の道」の歌詞中の他の牡羊座フレーズを拾い上げると

誰にも分かりはしないさ それでも歩き続ける

勇気を持って 前に進もう

山々はそびえ そこに道はない
道標はどこにあるの? それでも歩き続ける

どれもこの歌の核となっている言葉ですよね。



さらに 十二星座を人の一生に例えると 一番最初の牡羊座は、この世に生を受け 暗い産道を通り現世に現れる赤ん坊の段階。この世に一人の人間として現れる赤ん坊です。

反対に 十二星座の一番最後の魚座は、魂が肉体を離れる死に一番近い段階。
死に近い段階を担当する魚座は、生と死の境界が曖昧なものを示します。



十二個で一巡りの最後を担当する魚座は誰かというと……そう、雷蔵です。





その雷蔵が「勇気を出して 前に進もう」とソロで歌います。

ドクササコが他の城に攻められそうになっているという情報を得た雷蔵は、五年生の皆にそのことを伝えるか否かで悩みます。

そして雷蔵は 五年生の皆を信じる勇気を持ち、自分を信じる勇気を持ち、明るい未来の到来を信じ、五年生の皆に提言します。ぼくが三郎に化けて敵を欺くと。




つまり、忍ミュ第9弾の物語は
魚座雷蔵が、その先の牡羊座のステップに進む物語だったのではないか……今の私はそう考えています。



十二星座の一番最後の魚座は 冬から春に向かう冬の最後を意味し、その先であり十二星座の始まりの牡羊座は 春の始まりを意味しています。


よって、魚座牡羊座のステップに進んだ雷蔵は 寒い冬を乗り越えて、芽吹きの季節の春を迎えた。
生まれたての赤ん坊の段階を示す牡羊座は、誕生を意味するサイン。


そして、魚座は優しさから"皆に合わせる" "皆と一緒になる"星座です。
第8弾と第9弾の途中までは五年生の皆の様子を伺いながら皆に合わせていた魚座雷蔵が、第9弾の最後に自分自身を信じ、自分の意見を述べ 実行する。
まさしく、魚座から牡羊座への流れです。




魚座から牡羊座のステップに進んだ雷蔵は、厳しい冬を乗り越えて春を迎え 新たな雷蔵という存在として誕生したのです。
死の段階から新たな生の段階を迎えたから「再生」。




雷蔵は今回の出来事を通じて、希望の道を道を拓いたのです。

*1:通称が何かわからない