五年生はなぜ「翔ぶ」か

忍ミュ第9弾チケット販売中ですね。
忍ミュ第8弾が終わったので、ミュ8の振り返りと称して記事を書きました。9割方妄想の話をしています。




「船を出せ」「漕ぎ出せ」「大地を踏み鳴らせ」「響かせろ」
これらがミュ7の忍タマ六年生を象徴する言葉であった。
第7弾で六年生は海に出た。生きて帰れるどころかホトケになってしまった後も遺体がマトモな姿で残る望みすら薄い、遺体をマトモに弔ってやることもできないかもしれない、そんな危険が伴う海へ六年生たちは漕ぎ出でた。


海は 自分たちとは違う価値観を持ち違う生き方をしている水軍衆が仕事をし生活をしているフィールド=陸とは違う大人の世界。

だがそれと同時に、海は水平線の向こうにある外の世界に繋がる場所。異国に繋がる玄関口。外の世界とはつまり海外……日本の外に出たまだ見ぬ世界に繋がっているのが海。
テニミュでいえばMust be strong!の「地平線を超えて待っている 世界というその高み目指そう」だ。地平線を勝手に水平線に置き換えているけど……。
「小さな自分の世界」とそこから飛び出したらその先には「大きな世界」があると描けるのは日本が島国だからこそなのかもしれない。


学園の外に飛び出して学園の外の世界で生活する水軍衆に手を差し出してフレンドシップを結ぶことができた六年生は、まさしく船を出して海を越え外の世界に出ていく第一歩を踏み出したのだと言い替えられる……ここまではミュ7の話。



ミュ8の五年生は「翔ぶ」。
物語から察するに、地上から翔び立って高みへ到達するニュアンスなのだろう。
そうはいってもなぜ「飛翔」だったのか。
「飛翔」は何を意味するのか。


1.初演の舞台装置に見られる高低差

早速ミもフタもない話をする。けれども結局これが正解なような気もする。

初演のGロッソの舞台装置がとにかく高かった。
目の前に絶壁が立ち塞がっていた。本当に飛ばないと最上段に辿り着けない距離。

高い高いキャットウォークでアクションをする五年生たちの動きは「翔べ」から忍者の動きの「跳べ」に繋がる。
OP「飛翔」で一番下の段にいる五年生の五人が最上段を見上げる演出が「翔べ!」というテーマに繋がり、舞台演出が変わった再演まで引き継がれたのであろう。

初演のGロ公演 面白かったです。見辛かったけど……。
Gロのステージの魅せボーナス効果は大きい。


これで話が終わってしまってもつまらないしこの記事を書いた意味がないので、以下 妄想で話を広げていくことにします。




2.「進化」の象徴

飛行能力を持っている存在を「超」人間的存在とするのは昔々からの超人間的存在の描き方の方法の一つ。
仏さましかり天狗しかり妖精しかり大天使しかりスーパーヒーローしかり。


私が大好きな聖闘士星矢の星矢たちも 最後には翼が生えて飛行能力を手に入れた。わかりづらかったらセーラームーンでもプリキュアでも何でもいいから、最終形態を思い浮かべてほしい。なんならポケモンヒトカゲでもいい。翼が生えて飛行能力が備わった変身デザインになっているものも多いのではないだろうか。
進化形態といえば、翼と飛行能力のオプションと言えるのかもしれない。


なぜ 飛行能力の獲得が進化の表現となるのか??


①飛行能力の獲得=成長
卵から孵った雛鳥は生まれた直後は飛行能力を持っていない。数ヶ月の期間を要し成鳥にまで育ち 羽ばたく訓練をして飛べるようになる。
飛行能力は雛鳥が成長して、大人の姿になってようやく手に入れられる能力なのだ。

つまり飛行能力の獲得=成長 といえる。



②飛行能力の獲得="進化"
①から派生して
飛行能力を持った生物の象徴の鳥も、生まれたばかりの頃は飛行能力は持っていない。成長の過程ではじめて飛行能力を手に入れる。

その「成長」になぞらえて、SFのフィールドでは飛行能力を獲得した種を「より進化した種族」とする考え方がある……ように思われる。

人間が虫や鳥を模倣して飛行能力を手に入れようと試行錯誤してきた歴史から、人間に足りないものは飛行能力であり飛行能力を獲得したら人間はさらに進化したことになる。
(仮面ライダーOOOを見て 手塚治虫の『鳥人大系』を読んだばかりなので、こういう事を言っています)



ちなみに、虫にも動物にも鳥にも飛行能力を持つ種が存在する中で 飛翔する五年生たちを鳥になぞらえているのは「翼折られても 諦めずに空を見上げろ」と羽ではなく翼と歌っているからです。
でもコウモリに生えているのも翼なんだよね。そこはスルーでお願いします。





3.飛行能力は「巣立ち」の象徴

先ほど 飛行能力の獲得は成長であると述べた。
では 成長して飛行能力を得る前はどうしているか?

雛鳥は移動する術が備わっていないため、巣の中しか動けない。
今は木の上に作られた巣を想定して言っているが、雛鳥にとっての自分の世界は 巣の中と巣から見える周りの景色と親鳥が外の世界から持ってくるもののみでしかない。

よって、成長して飛行能力を得ることはイコールで巣立ちと繋がり、同時に自由と解放にも繋がる。

成長して飛行能力を得ることで、暗くて狭いたまごから誕生した雛鳥は 狭い巣から広い世界へ羽ばたいてゆく。


五年生の海辺での水軍衆との出会いもまた、島国日本=狭くて外に出ていく術がない巣 から外の世界へ航海に出る=巣立ち を示唆していたようだ。


忍務を与える!行ってこい!と言われた五年生は 初演では最上段を飛び回って間者の正体を探る忍務にあたっていたし、戦闘を許された時も最上段で己の手中にあるものを解放していた。




4.「正しいことをなすための力」としての飛行能力


飛行能力の獲得は鳥の場合は成長して得られる能力と先程述べたが、実際の人間の場合はどうなるか。

飛行機のような航空機で飛ぶ以外では、人間は超人間的存在から飛行能力を与えられることでしか飛行能力を得られない。
飛行能力を持つ存在=超人間的存在とするならば、飛行能力は超人間的な力。

飛行機は人間が創造した発明だから人間は飛行能力を手にしたと言えるかもしれないが、飛行機の発明に至るための閃き=インスピレーションは天から与えられたと言えないこともないかもしれない。



何のために人間は「超人間的な力」を得るのか?

これは具体例を挙げるとしたら「忍術学園が忍者の家の出ではない一般人にも秘伝の忍術を教える意味は何か?」ということになる。
忍術を超人間的な力と読み替えてほしい。どちらかといえば超人間的というよりもスーパーパワーくらいに受け取ってもらえたら、後の話がしやすくてありがたい。
実際にはなぜ忍術学園は忍術を広く教えているのかは公開されていないため、妄想で話をしていく。



仏さまやスーパーヒーローはなぜ超人的能力を持っているのか?
スーパーヒーローがスーパーパワーを持っているのは、人智を越えた力で人間では太刀打ちできない問題を解決して人間を救うため。
と、なると 忍術学園で一般人に忍術を教えるのも「ひとを助ける力」を忍タマ達に授けるため……ではないのか。
ここで言う「ひとを助ける」というのは社会の救済に他ならない。社会の救済なくして人間の救済は果たせない。



私が大好きなミュ第五弾再演は、火器の破壊力・威力としての力と三木ヱ門の火器を扱う能力としての力の扱い方がテーマだったと思っている。
三木ヱ門の火器の専門能力は自らの成長によって得た 自らのポテンシャルを引き出した力であると同時に、専門機関で与えられた特別なアビリティとしてのスーパーパワーでもある。火器を扱う能力もまた忍術だから。

三木ヱ門は最後は火器の力と自分の能力を忍術学園を守るために使った。三木ヱ門が下したその決断が問題解決に繋がり、ハッピーエンドを迎えられた。
火器を打つかどうするかの最終選択のあの場で試されていたのは、三木ヱ門の火器を扱う腕そのものというより、自分の専門能力をどのように使うか という三木ヱ門自身のだったのではないかと今になって思う。


さて、このタイミングで例えば兵器としての戦闘機の登場と 戦闘機で人間は何をしたか、ということも考えてみるのはいかがでしょう。飛行技術の発達により飛行能力をという力を手に入れた人間は何をしたか……?
同じ飛行能力を持つマシンであるレスキュー用のヘリコプターと戦闘機、どちらも空を飛ぶためのものではあるがその力を何のために使っているのか?


ミュ8の五年生の場合は、今回は「大きくなりたい!」「認められたい!」と強く願っていたが どうかいつか忍者の使命に気づいてほしい。



最後にまとめると

  • 飛行能力はスーパーヒーローの象徴
  • 超人間的存在からスーパーパワーを与えられる➡️飛行能力(スーパーパワー)を与えられた人間は人を助けるために飛行の力を使う
  • 進化して翼が生えて飛べるようになるのは、ヒーローが超人間的能力を与えられてスーパーヒーローになるから。

正直この項目は今回の五年生の翔べ!翔べ!の翼とはあまり関係ないと思ったけど、スーパーヒーローと飛行能力と翼の関係について気になっていたので書くこととしました。仮面ライダーOOOを見た影響です。



まとめ

ミュ8における「飛翔」は
抑制からの解放+成長して羽ばたいてゆく+"時は満ちた""機は熟した"ターニングポイント+五年生のさらなる進化の予感+人を助けるヒーローになることの表れ。




軽やかで開放的でそれでいて俊敏さがあって空を切り突き抜けていく鋭さもあって、「飛翔」は五年生らしさがよく表れたキーワードだったと思います。
五年生の五人が今回の初忍務を成功させた経験を通して、さらなる高みへと飛翔していきますよう。


以上。