忍ミュ第9弾 感想ツイートログ

第9弾公演時の自分のツイートをまとめました。

第9弾 初演

ミュ9の雷蔵、導入の山で訓練していた時に感じた異変を五年生の皆にすぐに伝えなかった事をドクタケに捕まってからずっと後悔していたんだろうな……と考えたらあまりにその状況が辛くてすっかり気が沈んでしまった。

自分が訓練中に異変に気付いたあの時すぐに 五年生のみんなに「あれ見えたよね?あれ聞こえたよね?」と伝えていれば、忍術学園陥落は免れたかもしれないし水軍衆も騒動に巻き込まれることにならなかったかもしれない。

雷蔵は、忍術学園が陥落してからずっと 五年生のみんなや忍術学園のみんなや水軍衆に対して後ろめたく思う気持ちがあったのだろうな……本人は何も悪いことはしてないけど。



「ぼくにもっと勇気があれば」と悩んでいた雷蔵が三郎に変装してドクタケとドクササコを撤退させることに成功した結末が、エンディングの「勇気を持って前に進もう」「希望の道歩こうよ」と歌う歌詞にも繋がってエンディングでウルウルっときた……。

ミュ8の 三郎がキャプテン達魔鬼に変装してマルナナとドクタケ一味を撤退させるシーンが大好きです。
文次郎と仙蔵が「ドクタケの奴ら 三郎の変装にまんまと騙されてやがるw」と内心笑ってなく いたって真面目に事の顛末を見ていたミュ8初の方が好きだな。

変装して相手を欺こうとする時って、「もしバレてしまったらどうしよう 大変なことになってしまうかもしれない」「ヘマしてしまったらどうしよう」という恐怖がついてくるのだろうなといつも感じています。
変装名人の三郎は場数踏んでいるだろうし変装には慣れているのだろうけど。
変装は仮面をつけて外見を変えてはいるけど、その反面とても捨て身の術であるように思う。

だから 弱気な雷蔵がこの作戦を思い付いて実行するまでには「みんなの前で提案する勇気」「作戦を実行する勇気」に加えて「捨て身で挑む勇気」が必要で、その捨て身の変装の役を雷蔵が自ら買って出たことがそれはもうものすごい事だと感じたんです。すごく勇気が要る決断だったと思います。
たくさん作戦があったかもしれない中で、五年生のみんなと忍術学園を守るために捨て身の選択を選んだ雷蔵に胸がぎゅっとなりました。

雷蔵の決断が希望の道に導いてくれますように。



忍術学園奪回の歌の「共に過ごした 忍術学園……♪」の時に五年生は何でいきなり長押と壁を触りに行ってるんだろう……と思ったのだけど、忍術学園に入学した時は背が低くて届かなかったけど五年生になった今では手が届くようになったってことなのか。



ミュ9はやっぱり誰よりもリスクを負うことを恐れていた雷蔵が最後は自分が一番リスクを負う作戦を思い付いて、その役をかって出る勇気を見せたことに感動する……。胸いっぱいだ。

その時に五年生の三人が雑兵役の三郎を守る配置についていたのに気づいてウルッとして、同時に三郎を演じる雷蔵が一人でドクタケ忍に囲まれた中にいたのだとも知ってさらに胸が熱くなった。



事件を解決させた時に留三郎と拳を合わせてもらった🤜🤛後、喜びを噛み締めるようにその拳をずっと大事に大事に握りしめていた竹谷が愛しい。

春日井公演で追加された演出なんだそうですね。

原作者のアシさんが描かれた漫画の方だけど、実写版映画二作目 夏休み宿題大作戦のコミカライズ版で文次郎と伊作が拳を合わせて🤜🤛いた印象が強く残っている。
六年生の戦友同士でやりあうコミュニケーションの形だという思い出(?)があるから、留三郎に「やったな!」とグータッチをやってもらえた八左ヱ門は留三郎に戦友として認めてもらえたように思えて嬉しかったのだろうな……と感じたのでした。



五年生の皆が事件を解決させて皆で笑い合っていた時の空が綺麗な夕焼け空で、避難した学園の生徒みんな今日のこの夕焼けを見た後に おいしい夕御飯を食べてお風呂に入って布団に入って寝てほっとして明日を迎えられるのだろうな……と嬉しくなった。

事件が解決したのが夕方だったから、避難場所から生徒全員が学園に戻った時はまだ夕飯は普段通りに食堂で食べられないかもしれないけど。
忍術学園の校庭辺りで夕飯の炊き出しをして、生徒みんなで「今日の夜に学園で夕飯を食べられるなんて思わなかったよな」なんて話しながらあたたかいご飯を食べたのかもしれない なんてあの後のことを想像してみたりして。
五年生の五人が忍タマみんなの明日と未来を守ったんだ。



ミュ8では三郎に守られていた雷蔵が五年生みんなと忍術学園と忍タマみんなの明日と未来を守ったんだよ……。雷蔵に変装している三郎も雷蔵の精神面の変化を感じ取って、その後 三郎自身も成長しようとするかな。そうだといいな。


ミュ9はかりそめの信頼関係を構築して互いを欺く話だったけど、唯一本当の新たな信頼関係が結ばれたのはしんベエと凄腕さんだけだったな。

しんベエ見つけた弁当を二つも人にくれることがあるの!?とそこにかなりびっくりした。
偶然見つけたにしても食欲に支配されたしんベエが弁当二つもあげるなんて……すごいぞ……。本当に凄腕さんの悩みを親身になって聞いてくれているし力になってあげたいと思っている。しんベエ割とご飯おごってくれるけどね。

あのシーンのしんベエ動きがいいね、かわいいけどギャグ極振りで笑ってしまう。
しんベエ いいことやっていたけど結果的に場をかき乱していていつものらんきりしん感あって好き。



不運の星のもとに生まれてずっと嫌というほど辛い思いや悲しい思いをしているはずなのに「いつでも道は拓けるよ」と言い切る伊作の精神がすごい。失敗やリスクを恐れていた雷蔵にそう教えてあげていた伊作は、人間には治癒力があるように「何度失敗しても人間は修復・回復できる」人間の自己再生力を信じている伊作だった。何度失敗してもやり直せるよ、大丈夫だよと教えてあげている伊作。ミュ6の「治すと直す」の治す担当の伊作。

ミュ6は 六年生の六人が今まで築き上げてきた絆と忍術学園が何度も壊されても、そのつど何度でも六人で直す物語です(私が勝手にそう思っているだけです)



ミュ9初の伊作と留三郎は ミュ8初で感じた"五年生と共に遥かな高みを目指す"文次郎と仙蔵と同じ六年生像だった。9再では果たしてどうなるか。

ミュ9初の六はは先生と水夫コンビと一緒に行動していたから「大人のお兄さん」のポジションに位置していた反面、最後の演出で「五年生と共に希望の道を歩む仲間」だと感じた。
ミュ8初→再の演出の変更と追加シーンによって六いの六年生としての見せ方がブレてしまったように感じたから……。



ミュ9の登場人物のみんなはなぜ誰一人として何の疑いもせずに差し出されたり置いてあったりした食べ物を食べちゃうのww
それぞれがまやかしの信頼関係を築いて騙し合う話だったからさらにそこが気になった。毒を盛られている可能性をみんな疑わないんだな……。

差し出された食べ物を食べて身体に取り入れる行為は相手を信用していることを示す礼儀なのかも。
この話で思い出すのが六年CDの文次郎と留三郎仲直り作戦のだんごのくだり それにしても「あいつなら毒を盛りかねん!」って文次郎と留三郎は互いにどんだけ信用ないんだ。


差し出された食べ物を食べて自分の血とし肉とする行為は、ミュ7の相手を信じて善意をしっかり受け取ることに通ずるようでもあって好きです。ミュ9の食べ物と信頼関係の描写はミュ5再の随所にあった花を渡す描写のようなものなのかも。



忍ミュ観たテンションのままに51巻の豆を移す習い編を読み返したら、ラストシーンで雷蔵が大決断した時にすかさず久々知くんと火薬委員会のみんながサポートに駆け付けてくれてウルウルッときた……。きみを信じてくれている人がたくさんいるんだよ雷蔵……うう……。



ミュ8ではとにかく「初忍務をこなして認められたい」「忍術学園の戦闘力として見てほしい」と自分のことで精一杯になっていた五年生のみんなが、ミュ9では忍タマ皆の未来を守るために「この命尽きても学園を守り抜く」意識になっていたところに五年生の精神面の成長を感じた。これからが楽しみ。


ミュ9は正心の話が随所に出てきたから、いずれ五年生のみんなも世の人のために命を燃やして尽くす意識が芽生えそうな予感がしている。

ミュ2で「六年生の先輩がた、かっこいい~……!!」って言っていた竹谷くんもそろそろ先輩方と同じところまで来そうで楽しみ。



思考の節々にネガティブな気質が見える雷蔵(解釈というかただ私が勝手に共感しているだけ)を「生きることは希望の道を歩むということなんだよ」と力強く肯定してくれたミュ9、目に涙が滲みます。それがすごく嬉しかった。


ミュ8で久々知がノリノリで歌ってた「みんな何かしら悩んでる~ゥ♪」が、ミュ9のクライマックスの「みんな悩んでる いつだって今も」で感動に変わった瞬間泣く。
ミュ8のみんな何かしら悩んでる~♪は五年生みんなの事だけど、ミュ9の希望の道の「みんな」は観ている私たちも入れてくれているんだよ。


オープニングの「遥かな夢に向かって……♪」のメロディがエンディングの「希望の道 歩こうよ……♪」で再び登場するところが好きです。メロディそのまんまではないけどほんのりOPの主題が香って重なるんですよね。


冬の寒空の下の自分の胸を温めてくれる歌が数年前はジブカケだったけど、愛知公演を観に行ってからは「みんな傍にいたね だから自分を信じるよ……♪」と雷蔵の独白ブルースを冬の夜空の下で口ずさんでいる。あたたかくてどこか懐かしいメロディがじんわり沁みますね。

音楽のジャンルがわからん あれはブルース?
自分に自信がないどころか自己不信に陥っている人間にはとても沁みました。この歌に背中を優しく押してもらいました。何度も口ずさんだら自己暗示をかけられるかなと思ってみたりね……。



不安感に襲われ「あの時も悩んで失敗したし、あの時も行動に移さなかったから……」と過去の失敗の記憶が次から次へと数珠つなぎに蘇ってメンタルが沈みそうだった雷蔵が「でもみんないつもいてくれたよね」と傍にいてくれる存在をそこで思い出せたのが偉いし不安感を自分で昇華しきったその強さよ。

「あの時もダメだった、あの時だってできなかった……」とダメだった時の事が次から次へと蘇ってきた時は苦しいよな。過去の苦しい記憶に縛られてしまってるんだな。
自分で自分を責めて気が沈んでいく一方だからどんどん孤独感に呑まれていくんだ……雷蔵が皆のことを思い出せて良かった。

雷蔵が自分の記憶の中のみんなの姿を見つけた時に その"みんな"の中に自分の顔で自分そのものの姿の存在があるけど(三郎のこと)、雷蔵は見た目が自分の姿そのものの存在を自分でない他者として認識しているのか それとも三郎を「客観的なもう一人の自分」のように見る時があるのかな。

天使と悪魔じゃないけど、自問自答する時に質問を投げかけてきたり自分自身に忠告したりアドバイスしたりするもう一人の自分 みたいな。


いや雷蔵も忍タマ優等生だし三郎は三郎だって当然わかってるだろうけどさ、そう思う事で希望が掴めるかもしれないと気付いたら「何だかもう一人の自分みたいだな」と密かに思っているってこともあるかもしれないじゃん。



しんベエル(大天使)大先生が部下と一緒に~ごはんを食~べ~よ~う♪とのお言葉をくださっていたけど、反対に一緒にご飯を食べるのを断固拒否させていただきたい人ってのもいるんだよね。食事中に警戒態勢を張らないといけないとか、真向かいに座って食事の時を共に過ごしたくないとか。

食事を共にする行為は栄養補給と食欲を満たす作業であると同時に相手の腹の内を探り合う場だから、警戒している相手と食事をする時は下手なこと言えんぞ……と緊張をとけないんだよね。
その空間と時間を共にする輪が生まれるけど、どっちかというと『そして誰もいなくなった』の緊張感ある空間。



ミュ9、忍タマ達の夢は「一流忍者になりたい」だし水夫二人の夢は「筋金入りの海賊になりたい」だしドクタケの夢は「打倒忍術学園」だしドクササコ二人の夢は「名前が欲しい」。



ミュ8は五年生も六年生も水軍衆もドクタケも留まることなく常に前進していたけど、ミュ9はそこから最後に歩み始めた感じ。


「夢」の一言で「一流忍者になる」と具体的な夢のビジョンを言葉の裏に描けるから、それが忍たまという作品のミュージカルの強みだな。



自分自身を信じる ってとてつもなく勇気が要ることだと思うんですよね。何をもってして確信を持てばいいの?
私なんかむしろ自己不信気味だよ。

信じられるものがあるっていいなァ それはすごく幸せなことだよなァ。
でも何かを信じてみようとする ってある種の賭けのような感じもある。信じるには勇気が要る。



ミュ8で「迷い癖 無くなればいいのに」と言っていた雷蔵がミュ9で自身の個性である迷い癖とうまく付き合っていくという答えにたどり着いたのが、個性から逃れられない忍たまキャラのメタ的な解決法に行き着いたし人間的にも成長した。

迷い癖とうまくやっていく というより、「前向きに解き放てばいいんだね」だから 自分が考えていることを外に出して皆と共有してみるよ ってニュアンスなのかな?


ソロ曲に入る前に五年生の皆に伝えるか伝えまいかで悩んでいたし 「あの時もあの時だって打ち明けておけば良かった」と歌っているから、やっぱり雷蔵が導き出した答えは 自分の思いや考えをみんなに伝えて共有することだったのか ?



ミュ6で「大切なもの見つかるまで 限りなく弾けながら……♪」と歌っていた留三郎と伊作が ミュ9で「大切なもの 無くさぬように……♪」と歌うのがいいよね。
二人は数々の冒険を経て、命を懸けて守りたい大切なものを見つけてきたんだろうな。


今日はミュの雷蔵ソロナンバーを聞きながら「雷蔵は一人で悩みを抱え込むのではなくて、みんなを信じて迷いを解き放ってみんなに寄りかかろうと決めたのだなあ……!!」と考えて もう涙べちょべちょ。
雷蔵の学園生活を見ている限りでは雷蔵はちゃんと報連相ができるとは思うのだけど、でも悩み迷い苦しみを一人で抱え込んでいたのだろうなとも感じるから……。
わかる、わかるよ、自分の悩みをひとに打ち明けるのにはすごく勇気が要るんだよ。自分の弱味を握られるのもまた勇気が要るんだよ。



迷い癖は忍者にとって致命的とも「忍者になどなろうと思うな」とも言われた雷蔵が「抱え込んでいる考えすぎ迷い 前向きに解き放てばいいんだね」と 自身の迷い癖を肯定してプラスに転化するという答えを自分で見いだしたって、いま思うとすごいことだ。

「山々はそびえ そこに道はない 道標はどこにあるの? それでも歩き続ける」とは、雷蔵が優柔不断な自分を否定し優柔不断を克服する以外の道を見つけたことも意味しているのかもしれんなあと ふと考えたのでした。

雷蔵にとっての忍者になるための道は「優柔不断を克服する」道以外にも実はたくさんの道があって、雷蔵は今までは「優柔不断を克服する」道しか見えていなかったけど 自分の前にはたくさんの道があることに気が付いたのだろうな。

自分で自分が歩んでいく道を見つけたなんて、雷蔵はすごいよ。彼はすごいことをやったんだよ。
さすが私が惚れた少年だよ。


自身が 誰にどのタイミングで何の話をするかを考えて話すタイプだから、あの歌の雷蔵も「この話は今みんなに話すべきか否か」で悩むことがしばしばあるんだろうと共感する。そしてタイミングを逃したことに対する後悔もきっとあるのだろうと……。



ミュ9の雷蔵は何で悩んでいたかというと、自分が「ドクササコが攻められそう」という情報を手に入れたことを五年生のみんなに打ち明けるか否かで悩んでいた と自分は解釈してます。それを打ち明けたことで、自分にデメリットが振りかかったらどうしようと思い悩んでいたのだと。


自分の力では不可能だと思い込んでいたことを最後は成し遂げたのだとすると、それこそ「これって夢なのかな!?」だしラストの雷蔵の「忍術学園、取り返したぞー!!」がどれだけ喜びに溢れたものなのかがわかりますね。


自分の選択に後々後悔しがちな私にとって、これがどれだけ優しくてあたたかいことか……!
「あなたの選択は希望に満ち溢れている、あなたが選択してあなたが歩む道は希望の道だ」
五年生のみんなのそれぞれ選択はぜんぶ希望に満ち溢れているんですよ。五年生だけじゃない、私も、あなたも。



第9弾 再演

ミュ9再演アナザーの「あの時より」、 本編で自分も人も信じられなかった雷蔵が自己肯定できて、自分が歩む道は希望の道だと知って、そのあとに「あの時よりもっと輝け 己を信じよう」って歌ったってことでしょ……!?
その一連の流れを全身に受けていたら私ぜったい会場で泣いてた。


雷蔵がね、勇気を出して三郎に化けてドクタケの前に現れた時、一陣の風が吹き抜けたんですよ。おそらく空調の風だと思うんですけどね。
でも私はあの時、風が吹いた!!と感じたの。
武器紹介曲の皆で声を揃えて歌う時に「ああ今 風が吹いた! 風が吹いたよ!!」と感じたのだけど、そな後で本当に風が吹き抜けたからびっくりしたという話です。
テニミュの爽やかさを表現する時に私はよく「ステージに風が吹いた」と表現するのですが、忍ミュでもそれを感じたんです。



ミュ9の随所に「正心」のワードが出てくるのは、自分が傷付くリスクを恐れ正しいことを成せぬのではならぬ 正心の"世のため人のため"を常に忘れず正しいことをなせ、って事だったのだと雷蔵のソロ曲を聞いてハッとしたんですよね。
恐怖に打ち勝ち正しいことをなせ って言っているように思えてきた。

正心に従えば 雷蔵がとるべき選択も自然と定まるんですね。

雷蔵は無意識的に正心と自分かわいさから来る恐怖(打ち明けた際に自分に振りかかるリスク)とを天秤にかけていて悩み苦しんでいたのかもしれないと、今となっては思うんですよ。
で、仲間への信頼と自信を手に入れて恐怖に打ち勝ち 正しいことをなすためには自分はどうするべきか、決断できた。

ミュ9の雷蔵は何で悩んでいたかというと、自分が「ドクササコが攻められそう」という情報を手に入れたことを五年生のみんなに打ち明けるか否かで悩んでいた と自分は解釈してます。それを打ち明けたことで、自分にデメリットが振りかかったらどうしようと思い悩んでいたのだと。

雷蔵は恐怖に打ち勝つ勇気を手に入れ、正心に従い正しいことを成しとげた……っていう話だったのではないかという気がしてきました ミュ9。


忍ミュ9の 部下と一緒に~ご飯を食べよう~♪はアニメのシーンを踏まえているのだろうとその程度で流したけど、それ以上に しんベエが自分が見つけた弁当のうちの二つを凄腕さんに分けてあげた描写と 凄腕さんが身銭を切ってドクタケ忍に高級まんじゅうをあげた描写の方が気になるんだよな……!

大好きな食べ物の自分の分を差し出してシェアする描写 って深い意味が内包されているように思うんだよね。
自分自身が 好きな食べ物は誰にもあげずに独り占めしたいタイプだから……分けてシェアしてあげるって、よっぽどの事だよ。


忍ミュ第9弾のタイトル「夢のまた夢!?」、観劇前は「その野望は到底叶いそうにない」と思わせ落としてから 観劇後に「夢の反転は現実」「夢は現実になる」と気付かせて言葉の意味を180度変えるカラクリが凄い。



忍ミュ9再演 大阪公演の会場は、広すぎず・演者が近くに感じられるコンパクトさがちょうどいいホールでした。ドクタケ関係者が客席降りしてウロウロしていると、客席も含めての忍術学園がドクタケの縄張りになってしまった不安感に駆られていいかんじ。
竹高様をあんなに近くでお目にかかれるってことは、客席も殿がウロウロするドクタケ領になってしまったってことでしょ……!?



忍たまというか落乱の世界では忍者から差し出された食べ物には毒が盛られてあるのが鉄板の流れだから、ミュ9の忍者たちはみんな 他の忍者から差し出された食べ物を疑いもせずに食べていたのが それ忍者として大丈夫か?って感じでもあったし、手渡されたものを食べることは信頼の表れかもしれん。

忍ミュ9の第一印象が「偽りの信頼関係・見せかけの信頼関係」とそれに相対する「真の絆」を描いた話 だったんだよね。
ドクタケと五年生達が互いに偽りの信頼関係を結んで、ドクササコとドクタケが互いに見せかけの信頼関係を結んで、そうやって皆が欺きあっているからこそ五年生の五人の絆が際立つ。

食べ物に毒を盛らないのも基本的な信頼関係以前に初歩的な信用の構築のためには必須(言い方な)だし、それを信じて食べ物を受け取って食べ体内に取り込むことで「あなたの誠意を受け取りましたよ」の意思表示をする。
その食べ物を手渡す側/受け手の信頼関係というか信用の構築を感じたんだよな。

雷蔵は伊作先輩のことを信頼しているから自分には毒は盛らないと信じて飢渇丸を貰ったし(伊作さんは敵に食べさせる食べ物に毒を盛ったりする人だからね)、五年生のみんなは雷蔵のことを「こいつは仲間に毒を盛るようなヤツじゃない」と信じているから雷蔵の飢渇丸を無断でもらって食べる(ひどいw)。

水軍衆は忍術学園でミュ7で信頼関係を結んだから、食べ物(滅多に食べられない鯨肉! しかも水軍衆の仲間が命懸けで仕留めた 重が初めて鼻を切った、兵庫水軍の面々にとってすごく特別な鯨の肉!)をお裾分けしてシェアしてくれる。

ドす部下はドク伍ドク陸というかドクタケのことをあの時点では内心 信用しきれていないから、ドク伍ドク陸からすすめられたおでん(しかも敵対する忍術学園の久々知が持ってきたやつ)を口にしなかった。

しんベエは凄腕さんを本当に助けてあげたいと思ったから、自分の弁当を凄腕さん達に分け与えた。
凄腕さんは自分の悩みを真摯に聞いてくれたしんベエは自分の味方だと思ったから、しんベエが差し出した弁当を食べた。ドす部下も凄腕さんのことを信頼しているから、凄腕さんから渡された弁当を食べた。

しんベエも恨んだ相手には仕返しで毒を盛る子だからねあの子は。食べ物に毒を盛るって発想はあるのよ しんベエにも。下剤を盛るイタズラ程度だけど。
でもミュのあの天使のようにかわいいしんベエが凄腕さんに毒を盛ったらショックだわワハハww

竹高様が久々知が持ってきたおでんを食べお茶を口にしたのは、五年生達と偽りの信頼関係(=欺き)を築くため。
ドク壱からドク陸が凄腕さんの仲直り饅頭を食べたのは、凄腕さんの「誠意を受け取った」という表明を凄腕さんにするため。

忍ミュ9はもちろん「同じ釜の飯を食った仲」的意味の食の共有もある(落乱でもアニメでも描かれていることだし)だろうけど、それ以上に 同じ食べ物をシェアすることで「この食べ物には毒は盛っていない」ことを表明し相手と初歩的な信頼関係を築くための食の共有を感じたんだよな。

私が忍ミュ9の食の描写についてレポートを書くなら「食べ物を分け与える行為と、手渡された食べ物を口にして体内に取り込む行為に内包された心理」について書くかな。

忍たまと落乱の世界で忍者か忍タマからおにぎりを差し出されたら、そのおにぎりには毒が盛ってあるか 鉄粉おにぎりと化していて食べたら歯が欠けるかのどちらかなんだよ。



「ぼくたちに忍術学園を取り戻すことなんてできるかな……」と言っていた雷蔵が忍術学園を取り戻せて本当によかった。
ドク陸が「また夢か~!」と目覚めた時の 雷蔵たちの力強い「夢じゃない!!」が、「忍術学園奪還は"夢じゃない"」と言っているようで、この言葉でじーんときた……。


私の雷蔵の解釈って、ミュ9の「一寸先は◎△$♪×●!、ですよねェ~!!(泣)」って言う雷蔵なんです。一寸先は闇だと思ってる。
迷うのも、選択肢Aのデメリットと選択肢Bのデメリットを天秤にかけてどちらのデメリットを身に受けるのがマシなのかを悩んでいる。


雷蔵の「"鉢屋三郎あるところ、不破雷蔵ありさ"ってね!」の「不破雷蔵ありさ」って言葉でじいぃいいんと感動したんです……。
今までは悩み迷い道を外れてしまっていた雷蔵だったけど、この言葉を言った時には しっかり二本の足で大地に立つ新たな「不破雷蔵」という存在が生まれたように感じた。



ミュ8でも9でも雷蔵が悪気なく純粋な不安から五年生の士気を下げるようなことを言う定番の流れ まじ……まじ……。
「おれ達がついているから大丈夫だ!」と雷蔵を励ましてくれる五年生のみんなは芯が強いな。
でも「命尽きても構わない」と歌った後、いちばん最初に拳を五年生のみんなの前に掲げた雷蔵の強い意志を感じられてよかった。


忍ミュ9再演の大阪公演、アトゥイのフォークソング(放浪者の子守唄のこと)のシーンは昼間なのに夕焼け空で、どこかのシーンは反対にライティングが空が白む早朝で何でだろう!と思ったんだよな。どのシーンか忘れてしまった。


おしゃべりなくせに全く自身の過去のことも自身のルーツのことも話さない網問が あの時ふと自身のルーツに関する話をしだしたから、間切はびっくりしたのかな。したのかもな。
いやでも原作では網問 普通にラッコの話をしていたから、普通に兵庫水軍の面々の前でも自身のルーツに関しての話はするのか?


網問はどうして子守唄なんて赤ちゃんみたいなものを口ずさむのか……?と思ったけど、故郷の北の海を幼少期に離れて各地を転々としていたら 故郷の記憶は幼少期のものしかないのか……だから故郷の言葉で紡がれるものとして子守唄が記憶に残っているんだ。
アイヌ語は文字がなくて口承で受け継がれる言語だって聞いたから、音のみの言語における歌って後世の伝承のための大きな役割を担っているのだろうな。

間切もアイヌ語がところどころに入る放浪者の子守唄を歌えたのは、アイヌ語が文字で受け継がれる言語でなくて口承で受け継がれる言語だから音で覚えるものだったから、音を覚えている間切も歌えたのかもしれない っていうそれだけのハナシです。



「海を渡っていけ」と親や同じ集落の人たちが幼い子どもに子守唄で聞かせているということを考えると、自然と刷り込ませる意図がありそうで、集落のしきたりなのか暗に「お前は逃げろ」と暗号のように伝えているのか……。
「海を渡っていけ」という言葉自体にはあんまりネガティブなイメージは感じなくて、むしろ海を渡った先に希望があるように感じるんだよな。
その"希望"は文字通りの希望なのか、それとも生き延びるために逃げる切実なものなのかはわからないけど……。
歌い継がれてきた歌が実は陰文式の暗号になっている とかフィクションあるあるじゃない?
パッと思い出すのが昔々のハム太郎OVAなんですけど……。



ミュ8を見た人種だから、小舟を漕ぐシチュエーションには「生き延びたい」という願いが込められた切実な希望が内包されているようにしか見えなくてさ……。ミュ9の網問が小舟を漕いでいく情景もそんな気がしてしまう。

この話、補足していい?
ミュ8再演の小舟を漕ぐシーンとは、沈むドクタケ安宅船から逃げ 帰るべき場所に生きて帰るために必死で陸を目指して櫓を漕ぐシーンのことを指しています。小舟に立ち正面をまっすぐ見つめる目が切実さを物語っていたんだよな……。
ついでに言うと ミュ8再演を観た時期にちょうど鉄血のオルフェンズ二期のラストを見てさ、宇宙船にかくまってもらって別の惑星に逃がしてもらうシーンで「希望って生死に直結する切実なものなんだ」って感じたんだよね。
"小舟"って、私にとっては ノアの方舟的な命を繋ぐものでもあるし、棺桶でもあるんですよ。
忍ミュ8再演と鉄血のオルフェンズがゴッチャになってるんだよ。


忍術学園を取り戻そう!と聞いた時の雷蔵の「そんなこと できるのかな……」は「"自分ひとりの力で"取り戻すことはできるのかな」と言っているように感じた。
もっと言うと雷蔵は「忍術学園を取り戻す」ことをハナから諦めていて自分自身はその発想に至らなかったかのような言い方だな。


自分の力では不可能だと思い込んでいたことを最後は成し遂げたのだとすると、それこそ「これって夢なのかな!?」だしラストの雷蔵の「忍術学園、取り返したぞー!!」がどれだけ喜びに溢れたものなのかがわかりますね。


ミュの五年生にとって伊作と留三郎の二人は 近いようで遠い存在なんだと、ミュ9のラストで留三郎とグータッチした後に喜びを噛み締めていた竹谷くんを見て確信しました。
一年の差はとても離れているしこの一年は絶対追い越せない。タテ社会の忍術学園に所属している五年生はそう思っていそうだ。


忍ミュ9の雷蔵の気持ちがわかって辛い わかるっていうか勝手に共感しているに過ぎないけど。
最初の鍛練の時に感じた異変を五年生のみんなに伝えていれば、忍術学園はドクタケに落とされずに済んだかもしれない……と考えているのかと思うと胸が苦しい。
「あの時の迷いグセ もっと早く打ち明けておけば」と悩む雷蔵は、自分が意見を述べる時に 仲間が自分の意見を聞いてくれるか、それとも反対派にオーバーキルされるかどうかで自分の意見を述べようか述べまいか悩んでいたと思ってます。意見を述べる勇気ってけっこう要る。


以前 オタクカミングアウトした友人に「オタクだけどオタクの話しないよね」と言われたから「自分がわからないものの話をされても困るからさ」と返したけど、つまり「こいつに話しても無駄か」って思うことは話さないんです、私。聞く気がなさそうな人や聞いてもわからなさそうな人には話さない。
自身が 誰にどのタイミングで何の話をするかを考えて話すタイプだから、あの歌の雷蔵も「この話は今みんなに話すべきか否か」で悩むことがしばしばあるんだろうと共感する。そしてタイミングを逃したことに対する後悔もきっとあるのだろうと……。


ミュ9再は 雷蔵の自己否定→自己肯定→「希望の道歩こうよ」からのアフターで あの時より で「あの時よりもっと輝け 己を信じろ」という流れになっていたと学園祭ニコ生見て初めて知って感動していた真っ最中だったから 、「あの時より」というタイトルの"あの時"は、「あの時の迷い癖 もっと早く打ち明けておけば あの日も あの時も……」の"あの時"なんだと言われて 、流していた涙がさらにドバドバ勢いを増しましたよ!!
雷蔵……勇気を出して一歩前に歩みを進めたお前は間違いなくあの時より輝いているよ!!うう……。



ミュ第8弾の雷蔵が自分を否定している時に「迷い癖は決して悪いことじゃない」と言われて「決して悪いことじゃないだって? そんな訳がないだろ! 迷い癖は忍者にとって致命的なんだよ! お前も内心では忍者として致命的なぼくのことを見下しているんだろ!!」と爆発する雷蔵のことを考えてしまった。
悲しい……悲しすぎる……完全に自己不信に陥ってしまったIFルートの雷蔵は本当にもう何もかもが信じられなくなってしまうんだ。自分のことを肯定して信じてくれる仲間の声も信じられなくなって否定してしまう。みんな腹の内では自分のことを笑っているように見えてしまうんだ。そんなの辛すぎるよ。


ミュ第8弾の雷蔵は「迷い癖は決して悪いことじゃない」と三郎に慰めて貰っていたけど、その時点では三郎の言葉は雷蔵には届いていなかったのだろうな。
届いていなかったというか、雷蔵はおそらく自分を肯定してくれた三郎の言葉が信じられなくて否定していた。雷蔵にその言葉が届いたのはミュ9。



今日はミュの雷蔵ソロナンバーを聞きながら「雷蔵は一人で悩みを抱え込むのではなくて、みんなを信じて迷いを解き放ってみんなに寄りかかろうと決めたのだなあ……!!」と考えて もう涙べちょべちょ。
雷蔵の学園生活を見ている限りでは雷蔵はちゃんと報連相ができるとは思うのだけど、でも悩み迷い苦しみを一人で抱え込んでいたのだろうなとも感じるから……。
わかる、わかるよ、自分の悩みをひとに打ち明けるのにはすごく勇気が要るんだよ。自分の弱味を握られるのもまた勇気が要るんだよ。


「山々はそびえ そこに道はない 道標はどこにあるの? それでも歩き続ける」とは、雷蔵が優柔不断な自分を否定し優柔不断を克服する以外の道を見つけたことも意味しているのかもしれんなあと ふと考えたのでした。

雷蔵にとっての忍者になるための道は「優柔不断を克服する」道以外にも実はたくさんの道があって、雷蔵は今までは「優柔不断を克服する」道しか見えていなかったけど 自分の前にはたくさんの道があることに気が付いたのだろうな。


雷蔵が「抱え込んでいる考えすぎ迷い 前向きに解き放てばいいんだね」という答えに辿り着いたのは、三郎の「迷ってこその雷蔵じゃないか」という言葉があったからなのかもしれんなぁ、とその界隈のプロの方ならとっくに知っているであろうことを私も今さら考えたりしました。
雷蔵が自分の迷い癖を受け入れて自己肯定できたのは三郎のその言葉があったから、だとしたら三郎は本当に雷蔵にとっての光だよ……。
雷蔵が自分自身をハグしてあげられたのは、三郎がヒントをくれたから。


何度も何度もこの話をしているけど、この思いを誰かと共感しあいたいから呟きます。
忍ミュ9は 自信がなくて信じられるものが無い雷蔵が仲間たちを信じて自分自身を信じられるようになる、 信じられるものが見つかった話だからジンワリ感動するんですよ……。


雷蔵がソロ曲で信じられるものを見つけた直後に 雷蔵が恐れていた「凄腕さんに作戦がバレる」が起きるけど、その時にはもう雷蔵には信じられるものがあるから大丈夫だったんだよね。そこを乗り越えるのがまた良いよね。



希望の道で「山々はそこに道はない 道標はどこにあるの?」と歌っているということは、「あなたが歩んでいるその道は希望の道なんだよ」ではなく、「あなたが勇気を出して選んだその道が希望の道なんだよ」ということなのだろうと今更気付いて泣きそうになっている。
そこに道はないんですよ。
勇気を持って決断したその場所を歩んでゆく、「あなたが決断したその道は希望の道だ」 というのですよ。
自分の選択、自分の決断が希望の道なんだって。「あなたの選択は決して間違いじゃない」どころか「あなたの選択は希望に満ち溢れている」とまで言ってくれるんだよ。
自分の選択に後々後悔しがちな私にとって、これがどれだけ優しくてあたたかいことか……!
「あなたの選択は希望に満ち溢れている、あなたが選択してあなたが歩む道は希望の道だ」
五年生のみんなのそれぞれ選択はぜんぶ希望に満ち溢れているんですよ。五年生だけじゃない、私も、あなたも。