夢と現実と希望の道―忍ミュ第9弾について

忍ミュ第9弾初演の余韻に浸っている。
あたたかくて優しくて熱を帯びた涙が一粒 目からこぼれそうな、そんな余韻だ。
他に言うことはないのかというくらいそれしか言っていないのだが……本当に何度も何度も感じるからそのたびに言葉にしているのだ。

それを感じる一番の理由はやはりラストに「希望の道」を語っていたことにあるのだろう。
という話をこれからしていく。



夢のその先

サブタイトルの「夢のまた夢!?」に夢オチの夢と未来の理想を掲げる夢がかかっていた今作。
夢のまた夢という言葉はてっきり「到底実現しない」という意味で「ドクタケ城の忍術学園陥落は到底叶わない」といったニュアンスのタイトルだと思っていた。
その意味もおそらく含まれてはいただろうが、どちらかというと 夢のまた夢!? は「二度 夢を見る」であり「何度も眠りと目覚めを繰り返し、夢と現実の境が曖昧になる」であろう。


私は忍ミュ第9弾の話をする時によく第6弾を持ち出す。
第9弾で五年生を見守る先輩役として登場した伊作と留三郎が試練が立ち向かう話が第6弾だからということもあるのだが、この二作に一番共通しているのは現実と非現実の境が曖昧になるところだと感じている。

というのも忍ミュ第6弾は伊作と留三郎がドクタケの幻術士に 他の六年生四人が忍術学園を裏切り土井先生と山田先生を暗殺する幻覚を見せられる話なのだが、伊作と留三郎が幻術を見た後に幻術の中で登場した伝子さんと半子さんが現実にも登場し、だんだん幻術と現実の区別がつかなくなってくる。
幻術をかけられた伊作と留三郎が裏切った六年生の四人をを成敗しようと刀を抜き、暴れ、忍術学園に波乱の渦が巻き起こる。
伊作と留三郎の手によって二人が見た幻術の"悪夢のような光景"が現実となりかける、そんなストーリーなのだ。


そしてもう一つ。
第6弾で伊作と留三郎がかけられた幻術の正体は一体何か。
眠り薬で眠らせ、幻覚作用のある毒を吸わせ幻覚を見させる。睡眠薬を飲むと幻覚を見たり幻聴を聞いたりすることがあるが、それは目は開いていても神経は眠りに入るため 目を開けたまま夢を見るような状態になるからだ。
そして外側から視覚情報や音や言葉なんかの刺激を与えると、見させたい幻覚をある程度コントロールできる。それが幻術の正体だ。(おおかたそんな風に落乱に書いてあった)
つまり、幻術とはクスリでキマッてる時に見る幻覚+寝ぼけた時に見たものだ。

忍ミュ第6弾の幻術はクスリでキマッてると直接言及はされていないが、六年生たちが伊作と留三郎に「目を覚ませ」と呼び掛ける描写がある。

そして伊作と留三郎が見た二回目の幻術(六年生の四人がサングラスとメガネをかけて現れる時のもの)を思い出してほしい。
片眼が包帯で隠れているのにもう片方の眼にも眼帯をかけ下半身をくねらせる雑渡さん、ナチス軍人かSM嬢さながらに鞭を振るう風鬼、ミラーレンズがビカビカ光るサングラスをかけ妙にハイになっている八方斎とタソガレジンベー……Sッ気全開の言葉攻めもある。仙蔵が文次郎を踏みつけるシーンもある。
普段のアニメでは放送できないこのアングラ感。支離滅裂で意味がわからないカオスな光景。ハイテンション。キマッてるとしか思えない。

そんな理由で、私は第6弾を"クスリでトリップしているかのような"作風を感じるためサイケデリックミュージカルと呼んでいる。



唐突に星占いの話をする。
魚座は身体で感じる第五感を越えた第六感、身体から抜け出た魂の世界(牡羊座から始まる十二星座を人の一生となぞらえると一番最後の魚座は死へ向かう段階となる)、寝ているときに見る夢、想像する夢(=幻想・理想)、そういった形のない曖昧なもの・目に見えないもの・「地に足がついている」の真反対の地面から足が離れた感じのものを象徴する海王星のパワーを授かる星座。
海王星が象徴する"曖昧なもの"とは境界がないものであり、例えば水のような液体である。
魚座の「思いやりがあって優しい」という性格は、他人と自分との間にある境界を破って自分がその人と一体化しようとする性質からくるのだそうだ。

酒を飲んでぼやっとプワプワした時や、ドラッグで幻覚を見たり幻聴を聞いたりして夢か現かという感覚になるのも魚座の管轄。


第9弾の「夢と現実の境が曖昧になる」と第6弾の「クスリがキマッてるかのような感覚」「幻覚と現実が曖昧になる」はどれも魚座が司るものという類似点がある。
そういう訳で、第9弾と第6弾の関連性を感じずにはいられないのだ。


夢と現実の境が曖昧になる。境が曖昧になれば夢と現実が一続きになる。
その末に行き着く先は「夢が現実となる」
眠って見る夢も未来の理想を掲げる夢も、自分の脳で思い浮かべるイメージである点では根本的には同じものだ。
だから夢は「眠って見る夢」と「自分が思い浮かべる未来の理想」のどちらでもあると言える。自分が思い浮かべた夢は現実になる。



歩むは希望の道

何度もしつこくこの話をして申し訳ないが、私は五年生の五人の中では雷蔵を一番応援している。いわゆる"推している"というやつだ。

しかけ罠のサインがあれば「陽動作戦かもしれない」と疑い、夏休みの宿題に簡単な宿題を割り振られたら「お前の実力はこの程度だと暗に言われているのではないか」と沈み、初忍務を命じられたら「今回の忍務、本当にぼくたちに務まるかな……」と不安をもらす 何かしら不信感に襲われている悲観主義者。他人事に思えない。
悲観主義のくせにやることが大ざっぱで、それで自分の首を絞めて余計に苦しみかねない 下手すると悪循環に陥りかねないところも他人とは思えない。


なぜ希望いっぱいの弱冠14歳でそこまで悲観的にならなくてはならないのか。可哀想に思えてくる。
しかし14歳の頃の私もこの世を嘆き日々に憂いを抱くこと八割、僅かな希望を二割抱いて生きる中学生だった。

好きになる二次元キャラクターの性格は自分自身の性格に似るとよく言うが、その自覚が大いにある。と いうより、勝手に自分と重ね合わせて勝手に共感している。



第9弾の最後に五年生・六年生と水夫の二人が歌う「希望の道」は、そんな悲観主義者の雷蔵に対し「生きることは希望の道を歩むということだ」と彼が生きることそのものを肯定し、「生きることは君が思っているより、もっとずっと光に満ち溢れたものなのだよ」と優しく抱き締めてあげていたように感じた。


君は生きている時点で希望の道を歩んでいるのだから、そんなに悲観的になることはない。

道半ばで たとえエラーが発生したとしても、君自身の力で修正して もう一度光の射す方へ向かっていける。


そんなふうに五年生のみんなに語りかけ、みんなを救っていたように感じた。


そもそもあの歌の「希望の道」の私の解釈は合っていないかもしれない。
本当は「希望の道」とは、道しるべはなくとも それでも歩み出す勇気ある者だけに拓かれる条件付きの限定的なものを指しているのかもしれない。

皆さんは「希望の道」をどう解釈されましたか? よかったら私に聞かせてください。




私は水軍の身隠しの盾役オーディション編で言われていた「自分がいま生きているのは、この先に何か良いことが起きる証明に他ならない」がどうしても信じられなかった。

「この先に何も良いことがなかったら生きてはいけない」の逆だというが、なぜそう言い切れるのか全くわからない。
いずれすることになる可能性がある家族の介護やその日食べるものも買えないほどの貧困など、この先 生きていてさらに苦しむ可能性は見えても、良くなる未来がまるで見えない。
生きることは苦しみを重ねることだとしか思えないのだ。行き長らえれば行き長らえるほど状況は苦しくなるビジョンしか見えない。


作中でこれを言われていた乱太郎たち忍タマはこれを信じて生きていけば良い。

ただ、それは忍タマたちは希望に溢れた「一流忍者になる」という夢を持った子どもたちだからだ。子どもたちの未来は明るくあってほしいし明るくあるべきだ。

しかし私がこれを信じたところで、今より苦しみを味わうことになることは目に見えているのだ。

「生きることはすなわち希望がある証明」は限られた人のみがそれを信じることが許された、条件付きのものとしか思えなかった。





そんな私が 第9弾を初めて観た時に、「希望の道」は「生きている者は万人が希望の道という光に満ち溢れた道を歩いている」という解釈に行き着いた。

何故だかはわからない。しかし、その時は素直にそう受け取れたのだ。



「あなたは救われるだろうけど、私はあなたと違うからきっと救われませんよ」と思っていた。

でも本当はどこかで「万人が救われるのだ。そう、あなたも」と言ってほしかったのだろう。


ここのところ、"こんな私"を含めた万人を救ってくれるものに心を動かされ、傷を癒されることが多い。
こんな私も対象に入れてくれる。こんな私も救ってくれる。


「希望の道」で一番心に響いた歌詞は、伊作が歌っていた「いつでも道は拓けるよ」と「みんな悩んでる」だった。

「私はもう手遅れだ」「今さら何をやっても無駄」とずっと思っていた。

悩んでいるのは自分だけだと落ち込んでいた雷蔵。そして……観客のうちの一人の私。
でも孤独ではなかった。みんなそれぞれ悩んでいる。
時を問わず、人を選ばず、全ての人を救ってくれる歌詞だ。






「私」と「あなた」と個を分けず、全てをひとつにして大きく抱きしめる魚座
魚座雷蔵が主役の第9弾は、そんな話だった。

そして魚座は草木が眠る寒く厳しい冬から、光が差し新たな生命が生まれる春へとさしかかる時期の星座だ。



今年も冬を乗り越え、私も春を迎えることができた。
第9弾が抱きしめてくれたおかげだ。