五年生たちは何を信じるのか―忍ミュ第9弾について

忍ミュ第9弾再演が動き出している。
孤独感に襲われる寒い冬を情熱と優しさと笑いで温めてくれてありがとうミュ9初演……。
寂しい冬を乗り越えられ、私のもとにも一年ぶりにまたうららかな春がやってきた。

ミュ9初は個性派舞台のGロッソ公演とサンシャイン劇場の舞台の形に近い愛知公演の両方の会場で観たから、最後には再演の姿の片鱗が見えるミュ9を見れた。
愛知公演の形態から再演でどう作品が変化していくのか楽しみ。

忍ミュ第9弾の初演が終わった今、考えていることを綴っていく。




忍ミュ第9弾はどんな話かと聞かれたら、私は「信じる」ことを描いた話だと答える。


私が忍たまにハマったばかりの頃は「自分達の大切な人が敵に回って自分達に刃を向ける」内容の落乱小説版が発売されたばかりで、初めて読んだ落乱もバケモノ女装の文子留子小平子と一緒に城の者を欺き謀を企てる者の陰謀を暴く話だった(雷蔵の成長物語の巻も一緒に読んだ)。
忍たまにハマり始めてから観た忍ミュも「目をかけていた後輩が敵方についてしまう」「ずっと仲間だと信じていた奴が実は敵方の者だった」なんてストーリーのものが続いた。

落乱を読んで忍たまのアニメを見ていくにつれ、乱太郎たちは騙しあいや欺きあいが日常的に行われていて、いま一緒に語らっている友が本当は仲間を装った敵方のスパイかもしれないし、そもそも昨日まで仲間だと思っていた者が翌日には敵になってもおかしくない そんな世界で生活をしているのだと知った。
落乱と忍たまはそういった「裏切り」「欺き」「嘘」で溢れていた。


あたたかくて楽しい子供向けの忍たまの一番のシリアスな"闇"の部分は時代背景から漂ってくる血生臭さや火薬のにおいよりも、乱太郎たちのような年齢が二桁になったばかりの子どもであっても何もかもを疑わねばならない世界に生きていることだと感じている。
そんな環境のもとで忍たまのオタクとして育てられた私も、いつの日からか忍たまを見る時は自然と「裏切り」「欺き」「信用できるか否か」を意識するようになった。
意識するようになったというより、この三つに敏感に反応するようになったと言った方が正しい。

だから第9弾で凄腕さんに差し出された饅頭をドクタケ忍者が何の疑いもせずに食べたり、しんベエから渡されたお弁当を凄腕さんが食べたりしていたのが、忍たまでは人から差し出された食べ物には大抵 毒が盛られているものだという認識を植え付けられていた私にとって驚きだった。あろうことかプロ忍が何の疑いもせず、他の忍者から差し出されたものを食べていたのだから。




信じられるものはこの世に存在するか

クラスメイトが本当は敵方のスパイかもしれない(本当に一年は組の生徒になりすましてスパイが潜入していたことがあったし)
学園の先生も本当は敵と繋がっているかもしれない(元抜け忍の先生がいるし)

学園や街で聞いた噂や情報も、誰かが何かの目的で流したガセかもしれない。

教科書に書いてあったことや学園で教わったことが、後の研究によって間違いだったと発覚することもあるかもしれない。


何があっても身を守ってくれると言っている人が、本当に必ず守ってくれるとも限らない。

実の親や子に売られたり山に捨てられることもあるかもしれない。

自分が住んでいるこの土地が、日本という国が、明日 突然他の国に攻め落とされて他の国の統治下に置かれてしまうかもしれない。



今日は友達だと思っていた人が、明日は世界で一番憎い存在に変わるかもしれない。



今日生きていても明日も生きているとは限らない。


明日も元気に過ごせる保証がないということは、叶えたい夢が叶うとも限らない。




このように考えると、これは信じられると確信できるものなんてこの世に何一つ無い。

永遠を保証するものはこの世には何一つとして存在しない。
それでも、そんな不安定で脆いものや人に賭ける。それこそが「信じる」ということなのだろう。

信じたものに裏切られる可能性は高いため、何かを信じる行為は裏切られるリスクを背負った上で行う勇気を必要とする。
何かを信じて生きることはリスキーなように思えるが、なぜ不確かなものを信じるのだろう。
(私個人は積極的に信仰しているものが無いのでこのような発想になるのだが)



"信じる"という選択

「疑うことと信じること」については第7弾でも言及されている。
六年生たちを警戒していた水軍衆が、土井先生が乱きりしんを水軍衆に預けたことを指して「子どもたちを預けるのは俺等を信じてくれているからだろ」と第三協栄丸さんに諭されたことで忍術学園の面々に心を開いた。

永遠が確約されたものなんて何一つないこの世の中でそれでも人を信じることは、「信じられないものばかりのこの世の中で、私はあなたのことを信じたいのです」という思いを相手に伝え 相手に歩み寄る手段となる。相手を"信じたい者"に選んだと伝えるのだ。
不確かな存在の自分に賭けてくれている人の存在にいかに救われるか、それに思い当たりがある方もいるのではないだろうか。
そして「信じる」ことは「認める」ことの第一歩でもある。認められるためにはまず信じられなくてはならない。


信じるものがある喜び

信じられないものばかりのこの世の中で、それでも信じられるものがあるのは何と幸せなことか。賭けようと思えるものが存在することが……。

自分自身が信じられなかった雷蔵が仲間が今日という日まで自分を信じていてくれたことに気付き 自分自身を信じようと決断したのは、仲間が信じてくれているという裏付けがあって自分自身を信じようと決めた意味があるが、疑ってばかりの雷蔵が信じられるものがこの世にひとつ増えたということでもある。
信じることは大きな賭けではあるが、自分自身を信じることは「自分を認める」ことに繋がり、救いとなるのではないか。
信じられないものしかないこの世で信じられるものがなく孤独を感じていても、自分を信じることで自分自身を抱き締められる。

孤独の中にいた雷蔵も仲間を通して自分自身を見つめ、自分自身を抱き締めたのだ。




……と、ここまで書いて 雷蔵の生まれ星座の魚座I believe(私は信じる)がキーワードの星座だと思い出し、武者震いしたのだった。