忍ミュ第9弾初演 感想

【!!ネタバレあり!!】

忍ミュ第9弾初演を観てきたので、初見時の感想を書きました。
いつも以上にド主観で特定キャラに偏っていてレポ感はほぼ皆無です。主にストーリーについての感想です。寄り道が多い長文になってしまいました。



2018/01/13 ソワレ(東京)




忍ミュ9、第8弾に続いて公式で発表されたものが何もかもが想定外でしたが とても楽しみにしておりました。


まず 学園長暗殺を企てたり同士討ちさせて忍術学園を壊滅させようとしたり船を襲撃したりしていたドクタケが ついに忍術学園を陥落させた!?と聞いて 「そこまできたか……!!」と胸騒ぎがした。

忍術学園を攻め落としたところで一体どうするんだ……と思う地味さはあるけど、忍タマ達にとっては自分達の小さな王国の忍術学園が「いくさ好きの悪い城」ドクタケに攻め落とされてしまうというショッキングな一大事。
五年生が自分達の王国・忍術学園の奪回に挑み、そのためにドクタケとあのドクササコに立ち向かう……だなんて面白そうじゃないですか。


そして実は私は、五年生の中で雷蔵を一番ひいきしております。
竹谷くんも年相応の男の子らしさが何ともかわいらしくて一番好きなのは誰かと言われたら選べない……けど……!!
でもやっぱり性格やこれまでの言動を見て、ぐっと心を掴まれているのが雷蔵です。


雷蔵が例えば「今日の昼食は魚か、でも肉も捨てがたいなあ どうしようかなあ」なんてワクワクしながら悩んでいるところって見たことがないです。私が見たことがないだけかもしれません。
雷蔵の迷いと悩みは"苦悩"しているように見えます。雷蔵は選択の時が与えられるたびに、どこか追い詰められているかのように悩み苦しんでいる……。
それなのに いつもにこにこ笑顔を人に向けられて、穏やかに皆に接することができる。そこが雷蔵の好きなところです。

柔軟な発想力で常識にとらわれず 誰もが思い付かないようなあっと驚くことを思い付くところも好きです。
そして雷蔵は、初登場時から本編中で成長の過程が描かれているキャラクターです。21期の豆を移す習い編でも、直感力を鍛えて迷いぐせを克服(?)して 最後にはものすごく勇気が要る決断をして実行し 忍術学園を危機から救いました。

次は一体どんなことを思い付くんだろう?次はどんなものを見せてくれるのだろう?とワクワクさせてくれて、成長を見守りたくなる子です。


そんな雷蔵が今回の座長で 攻め落とされた忍術学園奪回に立ち上がる話となると……ドラマを感じずにはいられませんですよそんなの。




五年生が忍術学園奪回を目指すわけ


忍術学園は忍タマたちにとっての自分たちの王国 と前述しました。ただの私の妄想に過ぎないんですけど。
それに加えて、五年生の五人が忍術学園をドクタケから取り返さなくては!!と動いたのは忍タマ達にとって忍術学園は正義の象徴だから……なのかもしれないと思っています。



ミュ9の本編でたびたび取り上げられていたワードがあります。それは「正心」。

正心とは、忍者にとって一番大切な心。忍術は謀をめぐらせて忍び込んだり人を欺いたり鍵を外したり脱出したりするための術。
そんな術をたくさん心得ていたら、正直 盗みだってめちゃくちゃやりやすくなります。家主や店員の注意をそらすためのテクニックをいくつもいくつも教えているのが忍術だから。

でも だからといって盗みをする時に忍術を使ったら、その人は「忍術を使って犯行に及んだ泥棒」になります。
忍者は盗賊と同じようなテクニックを使って忍び込んで忍務をこなすので、端から見たら盗賊も忍者も同じように見えます。
そこで盗賊と忍者を区別するための基準が存在します。

それは「忍者は 私欲を捨て世のため人のために忍術を使う」。
私欲に走り盗みを働くのが盗賊。
世のため人のためにという大義名分のもとに、城に忍び込んでアレやコレを持ち出すのが忍者。

忍ミュの過去公演にも「正心」に触れる物語があります。個人的なおすすめは忍ミュ第2弾と第5弾の初演と再演。今回は忍ミュ2で言われていたことと36巻で言われていたことをほぼそのまんま使いました。


ミュ9の物語では、五年生が変装なんかの術を使ってドクタケやドクササコの面々を欺きまくっていました。

欺きまくっていたけど、それも「ドクタケから忍術学園を取り戻すため」という大義名分があるからです。
忍術学園がそのままドクタケに奪われっぱなしになっていたら、ドクタケが忍術学園を有効利用してこれからもっと悪いこと*1をするかもしれない。


そして、忍者を使って他のモノも使って悪いことをするドクタケに忍術学園が攻め落とされたとなると……忍術学園で忍タマ達が学んできた忍者のあり方や正義のあり方は悪に破れた ということになってしまう。

正義が悪に屈するなんてことはあってはならない。世の人々を守るためにも、正義の理想の姿を守るためにも。
だから五年生は、自分たちが信じている正義のあり方を教えられた忍術学園をドクタケから取り替えそうと立ち上がったのです きっと。

イントロのドクタケ陸の夢での 正心を忘れた悪の忍タマ達は 忍タマ達の己の中にはびこる悪心に負けて私利私欲に走っていて、これもまたある意味 正義が悪に屈した姿を描いていたように思います。
こじつけも はなはだしいですね。


がんばれ五年生!の五年生第一弾の次、五年生第二弾の第9弾で正心をキーワードにしているのも、かつての六年生忍ミュの忍ミュ第1弾と第2弾と似ていますね。これも偶然なんでしょうかね。




見せかけの信頼関係と本当の絆


五年生とドクタケ殿・五年生とドクタケ忍たちの関係のように利を得るためだけに上っ面だけの信頼関係を構築したり、ドクタケとドクササコのトップだけの決定で結ばれた同盟関係だったり、お嬢さん(?)たちとドクタケ壱のように偽りの関係を偽装したり(素性がお嬢さんですらないから)、ミュ9はストーリーが進むにつれて様々なところで互いに欺き合いながら偽りの信頼関係が意図的に結ばれているな~と観ていて思いました。

表面的には友情をうたっているけど実際は役に立つから関係を結んでいるだけ、なんてことも現実でも結構ありえるんだろうな と感じるものがあった。
そして五年生が裏で操作してドクタケとドクササコを仲たがいさせていたように、両者が互いに自分たちの意思で好意や憎悪の感情がのっかった人間関係を形成していると思い込んでいても、それすらも本当は第三者によって操作されて作り上げられた虚構の人間関係であるという そんなことももしかしたら現実でもありえる話なのかもしれない とも思いました。

そんな中で反対に、部下や一緒に仕事をするチームのメンバーと良い関係を築こうと頑張る凄腕さんもいたりして。


若干 話が逸れますが、ミュ8で世界にドクタケの輪を歌って踊るマルナナくんは本当にドクタケ忍の面々と絆を深めたかったのか、それとも自分の仕事がやりやすいようにドクタケ壱から陸を洗脳していただけなのか 未だにわかりません。



物語中でドクタケとドクササコ相手に嘘の信頼関係を築いて(バレたけど)いろんな人を騙しまくっていた五年生のみんなは、ふとした時に「あいつとは友達だと思っているけど、本当はあいつは友達のふりをしておれにそう思い込ませているだけなのかな……」と不安になる時はないのかな……と少し思いました。人を欺いたりまやかしの信頼関係を築く術をたくさん学んで使っているから。


私なんて 五年生と同じ歳の14歳の頃は、いつ友人らから愛想を尽かされるかわからない恐怖に常に襲われていました。友情は決して確約されたものではなく、自分が知らないところで無くなっていたり 実は元から存在していなかったということもあると肌で感じていました。
今回はいつも以上に陰キャオタクの陰キャっぷりを晒していくスタイルでいきます。

しかも三郎は五年生のみんなと接するときも素顔は見せることなく、変装のまやかしの顔で接しているし。
五年生の他の子たちはまやかしの顔の三郎と接していて三郎と距離を感じることはないのかな。それとも本当は五年生みんな三郎の素顔を知っていたりするのかな……?


けれども忍ミュ9を観ていて
五年生のみんなは 自然体だけど決して壊れることのない確かな絆で結ばれているのだろうな とも感じました。
どちらかというと こっちの気持ちの方が勝っています。

五年生のみんなは時には少し互いの友情に揺らぎを感じて不安に思うこともあるかもしれないけど、それでもまた友情が修復できる信頼関係があの五人の間には築かれているように思える。




ひとを信じて自分を信じる


落乱37巻の宿題バラバラ大事件からのオーマガトキ喜三太救出編(劇場版 全員出動の段の物語)で、おそらく低学年用の宿題が与えられた時には「ぼくに割り振られた宿題がこんなに簡単なのは何か裏があるからなのか……!?」「ぼくの実力はこの程度だと暗に言われているのか……!?」と夏休み中悩んでいたら夏休みが明けてしまった雷蔵
あれこれ考えて悩んでしまって宿題に手がつかなかったのかもしれない。

雷蔵はどうしてこの時「ぼくの実力はこの程度だと暗に言われているのか……!?」という考えにとらわれてしまったのか。



もし本当にそうだとしたら辛いからそれは考えたくもなかったし現実を見ないようにしていたけど、でも雷蔵は 本当は薄々自分でも「自分の実力は五年生レベルに達していないかもしれない」と感じていたのかもしれない。
しかも雷蔵には思い当たる節があるんですよ。優柔不断で判断が遅れたり正しい判断を下せない時があるから。「優柔不断は忍者にとって致命的」と先生方からも言われているから。

雷蔵がいろんなことを深刻に思い悩んでしまうのはなぜか?
それはきっと 自分に自信がないからです。



でも、雷蔵はミュ9の物語の中であることに気付きます。

分かっているんだ
僕に勇気があれば
もっと強く 打ち明けておけば

あの日も あの時も

(中略)

あの日も あの時も
みんな傍にいたね
だから自分を 信じるよ


今まで何度も何度も迷って悩んで失敗してしまった時があったけど、それでも五年生の四人は雷蔵を見放さず 今日までずっと仲間として一緒にいてくれた。
何度も何度も迷って失敗してしまったけど、五年生のみんなはそれでもずっと雷蔵のことを信じてくれている。

みんながぼくのことを信じてくれているのだから、ぼくも自分を信じるよ と雷蔵は立ち上がったのです。
(と 私はこの歌を解釈したのですが、みなさんはどう解釈されましたか?)


何度も何度も失敗しても自分を許してくれて 自分を信じてくれる。
五年生の五人の絆は 利を得るためだけに結ばれた見せかけの友情なんかではなく、共に高みを目指す真の仲間の絆なのだとここでわかりました。



信頼関係を結ぶには、相手の純粋な善意を優しく掬いとって慈しみ 相手を信じ 自分から歩み寄っていくことが大切だと忍ミュ7で語られていたように感じました。
伊作と留三郎がかつて他の六年生の四人と一緒に成し遂げたことです。

雷蔵もこの時、何度失敗してもそれでも自分のことを信じてくれている五年生のみんなの純粋な善意に気付き 自分に向けてくれている五年生のみんなの気持ちを大事に大事に胸に抱えて生きていくように決意したのでしょう。



夢が示すその先


「夢のまた夢!?」というサブタイトル、どう思いましたか?
私は忍ミュ9を観る前は「ドクタケの忍術学園陥落は到底叶わない」という意味の「夢のまた夢!?」だと思っていました。
でも夢オチの夢の他に、心に描く叶えたい夢 も含まれていましたね。



エンディングの「希望の道」、すごく良い歌ですね。エンディングで感情が溢れ出て泣きそうになりました。

夢がある。夢を叶えた未来の自分の姿を見たい。夢を叶えた時に見れる未来が楽しみ。
だから今日を生き抜いて明日を迎えることができる。

この記事(忍ミュ第8弾が語る"明日"と未来 - m-opera)を書いたテンションのままに忍ミュ9を迎えたので、エンディングで胸がいっぱいになりました。


20期の身隠しの盾オーディション編で、希望があるから人は生き抜ける 生きていれば希望がその先に待っている と語られています。いつか楽しいことが待っているから今日まで生きているのだと。

生きていくこと 人生そのものを「希望の道」と表現するのだな……とそこでまた目に涙が溢れそうになってしまいました。
歩んでいった先に希望が待っているから希望の道。生きているのは希望がその先にある証拠。
希望の道 ってなんてポジティブで暖かい言葉なのだろう。人生そのものを「希望の道」と言ってくれる優しさと力強さに背中を押してもらえる。


俺たちもそうさ いつだって今も
いつでも道は拓けるよ
希望の道探そうよ

光ある人生を歩むことをすっかり諦めていた私は「いつでも道は拓けるよ」と断言してくれる心強さに救われた気持ちになりました。
もう今さら無理だと、全てが手遅れだと思っていたんです。
でも 本当は「いつでも道は拓けるよ」と言ってもらいたかった。言ってもらえて嬉しかった。


みんな悩んでる いつだって今も
明日への夢 抱きながら
希望の道歩こうよ

迷い悩み苦しんで激しい孤独感に襲われていた気持ちが「みんな悩んでる」という言葉で少し軽くなりました。
悩み苦しんでいた雷蔵が周りのみんなに助けられながら 勇気を出して一歩踏み出したラストシーンとこの歌詞がリンクしていて、みんなが苦悩している雷蔵を優しくそっと抱きしめてあげていたように感じた。
でも それだけでなくて、今現在 苦しんでいる自分のことも見つけてくれたようでそれがすごく嬉しかった。

ミュ8で兵助が「みんな何かしら悩んでる~♪」と歌っていたときは場が明るくなったように感じたけど、同じ言葉でもその言葉をかけるタイミングによって受け手が受ける印象が変わってくるんですね。
この歌の「みんな悩んでる」は感動を呼ぶ言葉となっていた。





ミュ9は五年生が「命尽きても構わない」と言っていた割にはゆるくておふざけたっぷりで肩の力が抜けて、最後は迷って悩んでいる自分をハグしてくれるようなあたたかさに溢れたミュージカルでした。
自分の胸をあたためてくれるものがまた一つできた。真っ暗闇の中で道を照らす明かりとなってくれるものがまた一つできた。

*1:他に言葉が思い付かなかったので、適当に読み替えてください