忍ミュ第8弾が語る"明日"と未来

ついにミュ9初演が始まるので、ミュ8のまとめのような記事を書きました。
ミュ9初の公演が始まる前にアップするつもりだったんだけどおかしいな 取りかかりが遅すぎました。
Twitterで既にツイートした事と同じようなことを言っています。



ミュ8の全体を通して何度も登場する印象的なワードがある。

「今日の自分を背負って 明日の自分たぐり寄せ」「踏み出す勇気 明日の自分に出会うんだ」「越えていこうどこまでも 明日への扉開くまで」……と三つほど歌の歌詞を抜粋してみたが、これらのようにミュ8では繰り返し「明日」という言葉が登場する。


"明日"=???

忍ミュ8の曲の数々で使われる「明日」は一体何を意味しているか?

もちろん文字通りに明日を意味してはいるだろう。でもそれだけではないはず。
皆さんがお察しの通り、そしてこの記事のタイトルで既に言ってしまっているが「明日」は「未来」の言い換えだろうと推測できる。(こんなん書くまでもなかったですね)

という訳で "明日"=未来 ということになるが、では どうして"明日""未来"とイコールで繋がるのか?



明日を迎える とは今日という日を生き延びることができたということだ。

一日を過ごせば明日が来るのはいたって当たり前のことであるように感じられるが、昇って沈む日輪を見送り 翌日再び朝日が昇る時まで一夜を生き延びることができた者、その者だけが明日の太陽を拝め明日を迎えることができるのだ。

そして 今日を生き抜き明日を迎えることを何べんも積み重ねた先にあるのが未来。
よって、夜の到来は"未来"の最小単位であり、夜を生き延び明日を迎えることが未来への到達といえる。
(フォロイーさんに教えて頂きました)


すなわち明日の到来とは
「今日を生き延びる」ことであり「未来へ命を繋ぐ」ことである。




忍タマたちに明日は来るか


初めてミュ8を観た時、ミュ8の「明日」という言葉の使い方から
ミュ8の登場人物は誰もが皆「明日は必ず来る」と信じているように感じた。

OP曲:飛翔の歌詞にも「戦国の時代の波を 乗り越え生き抜くため」とあるように、忍ミュは忍タマたちが生きている室町戦国時代を生きる厳しさを描写することがある。
ミュ8はその描写をした上で、登場人物の皆は「もしかしたら明日は来ないかもしれない」と考えることはないのだろうと思わせるものがあった。
室町戦国時代を生きてはいるが、いつか自分たちの下に訪れる未来の夢を見て 明日の到来を確信する五年生達の死生観はいたって現代日本的なように見えたのだ。

室町戦国時代を生きた人々の死生観はわからないが、素人目に見て「現代の日本に比べてもっとずっと死が身近に感じられたであろう室町時代の少年たち」が「現代日本的な死生観で未来を語る」ところにズレが生じているような違和感を覚えた。

観客がミュ8の主役の五年生たちに感情移入して物語を見るように、あえて現代日本的な死生観で物語を描いたのかもしれない。しかし今はそんなメタな話をしたいのではない。
そもそも原作の落乱も 読者の小学生の子どもたちが登場人物や作品に親近感を覚えるように「学校という教育機関に通う」という現代的なセンスを持った少年たちが登場するわけだが、いま話題にしている「現代的な死生観で未来を語る」はそれとはまた違うように感じる。

室町戦国時代の血生臭さを強調して生と死を原作以上にドラマティックに描く傾向がある忍ミュで、現代的な死生観が描かれているのはなぜだろうか。



明日の自分に出会えるのは今日という日を生き抜いた者だけだし、今日という日を生き抜いた者にしか明日への扉は開けない。
未来の自分の姿を見たいと願うなら、今日という日を生き延びることが絶対条件だ。
だから明日への扉を開きたいと切に願う五年生は、心が折れきって一夜を生き延びるのが危うい時(夜の消滅=壊れそうな夜)こそ互いに微笑みを交わし 必死で明日の自分をたぐり寄せようとする。

医療が発達しその他諸々によって安全性がある程度高められた現代であっても、明日を迎えられるのは当たり前でもなんでもなく決して確信できることではない。この現代日本であってもだ。


現代日本であっても必ず明日の朝日を拝めるとは限らないのに、室町戦国時代の人々が未来の到来を確信できるか?
できないでしょうね。


では、なぜ五年生たちは明日の到来を確信しているのか?



本当のところは、おそらく100%確信はできない。
でも ミュ8再演の追加シーンで水軍衆が「凱歌をあげよう 高らかに」と力強く歌ったように*1忍タマたちも「自分達には必ず未来が訪れる」と意識して思い込もうとしているのではないだろうか。

水軍衆と忍者に共通して必要なのは「必ず生きて帰る」という執念であると身隠しの盾オーディション編で語られていた。(落乱50巻/アニメ20期77~84話)
不安定で明日を迎えられるか確信できないからこそ、彼らは必ず生還すると自らに暗示をかけることで何がなんでも生き延びようとしているのではないだろうか。


そして 未来の到来が確信できるから夢を願えるのではなく、希望があるから何としてでも明日の自分をたぐり寄せようとする。
五年生と(あと六年生も)未来に到達して未来の自分の姿を見たいから。まだ見ぬ景色が見たいから。

希望とは、籠城している者にとっての援軍・助けてくれる者 と水軍オーディション編で例えられていた。
五年生の希望とは「一流忍者になる」こと。そのための第一歩として「初忍務で自分の実力を見せつけて先生と六年生達に一人前だと認められる」こと。


スケールが大きいから、もっと日常に落とし込んでみよう。
私個人の話になってしまうが、私は学校にどうしても行きたくない、職場に何がなんでも行きたくない、次に目が覚めたら学校に行かなくてはならない、明日が来てほしくない……とどちらかといえばまだ見ぬ明日に怯え明日の到来を怖れることの方が多い人生を送ってきた。それでもごく僅かながら、明日が来るのが待ち遠しいと思える日があった。

明日の予定、忍ミュの観劇に行く日、落乱コミックスの発売日、明日の忍たまの放送、前日の夜にたまご液につけ込んだちょっと変わったフレンチトースト、翌日食べたいもの……etc.
これらの僅かな、そして数時間に及ぶものやほんの数分で終わってしまうものなど様々なほんの些細な楽しみ。そんなたった数分の楽しみを手にするために「明日が早く来てほしい」という願いを積み重ね、結果的に今日まで何だかんだで生き延びることができた。
ぶっちゃけてしまうと自分には大層な夢はない。けれども些細な楽しみなら、ありがたいことにまだまだ湧いてくる。




余談ですが、ミュ8の明日を歌う歌のフレーズで私が一番好きなのは

踏み出す勇気 明日の自分に出会うんだ

です。

そうだよ最愛キャラの文次郎が歌っているからだよ バレたか。

自分の価値観や言動や環境を変えるためにその第一歩を踏み出すことがいかに難しいか それを「踏み出す勇気」とのびやかに表現し、「明日の自分に出会うんだ」と文次郎と仙蔵が未来を楽しみにする様子が何ともフレッシュ。
「明日の自分に出会うんだ」というポジティブな言葉選び。未来の自分はどうなっているのだろうか?と未来の到来を楽しみにしているようではないですか。自分も未来の自分の姿を見る日が楽しみになっているような気さえしてくる。






では最後に、忍たまファンならよく知っているであろう歌の歌詞を引用して話を締めさせて頂く。


たとえさみしすぎる夜が来たって 新しい朝かならずくるさ


このフレーズの何と力強いことか。新しい朝=明日は必ず来ると言い切る力強さに救われた人々は多いのではないだろうか。
自分では確信できないことを言い切ってくれる心強い存在が忍たまファンの我々のすぐそばにいつもいるのだ。

*1:しかし後々考えたら滄海のボレロで 凱歌をあげよう高らかに と歌ってはいるけど、水練の者の二人が生還するとは言ってなかった